8話
「目のやりどころに困る」という言葉は、特に女性を目にした男性が使うことの多い言葉だと思っていたが、なまえはまさしく今、そのように思っていた。身支度を整えたなまえが玄関へ行くと、義勇が一足早く支度を終え待っていた。
お待たせしました、の語尾が思わず小さくなってしまう。今日の義勇はシャツを着ていない袴姿で、ちょっとした違いなのになまえには別人のように感じられた。
「どうした?」
「なっなんでもないです!」
「行こう」
「はい!」
どぎまぎする胸を押さえて、なまえは義勇に続いて足を踏み出した。
■
買った着物をすぐに着られるよう仕立て売りをしている呉服店へ行くため、二人は少し離れた街へやってきた。この街の商店街はなまえが普段行く商店街よりずっと発展しており、行き交う人々は活気に溢れている。華やかな雰囲気がそこかしこに感じられ、なまえはやや気遅れした。
(あんまり高くないといいなぁ)
産屋敷家は隠にも十分な給与を与えていたので、なまえは年頃の娘の中ではそれなりの収入を得ていたと言えるが、何より先行きの分からぬ身だ。持ち金は大切にせねばならない。懐に手を差し込んだなまえは文字通り、財布の紐をぎゅっと握りしめた。
緊張の足取りで呉服店へ足を踏み入れると、店主がすぐに愛想よく近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
「女物の着物を探しているのだが」
物怖じせず進む義勇が店主に用件を告げると、奥から年老いた女将が顔を出す。
女将とぱちり目が合い、なまえも口を開いた。
「すぐに着られるもので、このかんざしに合うものがあれば嬉しいのですが……」
なまえが蔦子から譲り受けたかんざしを差し出すと、女将は目を細めてそれを眺める。それから今度は首を後ろに引っ込めるようにしてなまえの顔や全身の様子をしげしげと眺め、すぐに着物を見繕ってくれた。
「奥さんに合うのはこれだね」
「お、おくっ」
関係性を間違われた上、慣れない呼び名になまえがうろたえる。しかし弁明する間もなく、「どうだい?」と問われたのでなまえは顔を赤らめたまま着物を眺める羽目になった。
その横で、店主が義勇に耳打ちした。
「うちの名物女将でして……。少々口うるさいですが、目利きの腕は確かですので」
まず女将が提示したのは小さな柄が控えめに入った桃色の着物だった。やや味気のない雰囲気ではあるが、色の雰囲気もかんざしに合っているし、値段も手ごろそうだ。
「そうじゃなかったら、これだね。生地も上等で文句ないよ」
続けて女将は、淡い桜色に紅色の花模様が散りばめられた品のある着物を掲げてみせた。なまえは思わず息を飲み、こんな着物を着てみたいと幼少期から憧れた、優美な雰囲気に目を奪われる。かんざしも、こちらの方がぐんと映えそうだ。
「わ……素敵」
「だろう?似合うと思うよ」
しかし先ほどの女将の発言がなまえの頭をもたげる。生地が上等と言っていた。いくらするのか、恥ずかしくて確認する勇気も出ない。二つの選択肢があるならば、今のなまえは、出費を抑えられるものの方が良いのだ。
未練を断ち切るように、一度ぎゅっと目を瞑ったなまえは、「着替えられるものを増やす」という当初の目的を思い出して、泣く泣く決断した。
「桃色のお着物にいたします」
なまえの様子をじっと見ていた女将は「そうかい?」とやや残念そうに言ったが、それ以上無理に押し売りすることはなく、気前よくなまえの決断を受け入れてくれた。
「では夕刻までに急ぎ仕立て上げをいたしますので、寸法を測らせてくださいませ。こちらへ」
「は……はいっ!」
今度は店主に促され、なまえは店の奥へと案内される。
その様子を義勇がぼうっと見つめながら立っていると、突然目の前に女将がぬっと顔を現し、彼は些か驚いた。
「なぁに突っ立ってんだい」
驚いたのも束の間、女将に開口一番叱咤され、義勇は窺うように老婆を見つめ返すこととなった。
■
「食べたいものはあるか?」
呉服店を出てすぐ、義勇が声をかけた。仕立て上げが終わるまで必要なものを買いそろえる予定であるが、まずは腹ごしらえしようとの提案だ。
「特には……義勇さんは何かある?」
「……うなぎ」
「うなぎ」
路地の少し向こうを見つめる義勇の視線をなまえが追うと、うなぎ屋が目に入った。というより、この通りには茶店以外の食事処が少ないのか、丁度良い具合に昼食が取れそうな店はそこしかないといった感じだ。
「じゃあ是非うなぎ屋さんに!」
「うん」
なまえの言葉に義勇が相槌を打つ。自然と頷いてくれる義勇の柔らかさに、なまえは顔がほころんだ。
隊に所属していた時、なまえは何度か義勇を見かけた。当時の義勇はいつ見ても瞳の奥に生気のない閉ざした表情をしており、暗い陰をまとっているようだった。なまえの知っている幼少の友とはまるで違うその姿は、別れた後彼の身に起こった出来事を察するに余りあった。
今、穏やかな顔つきで足を進める義勇のいることが、鬼のいなくなった世を証明しているようで、なまえは一人、胸の満ちる想いになった。
義勇となまえがうなぎ屋の暖簾をくぐると、この通りに食事できる店が少ないこともあるのか店内は大変に混雑していた。
「あそこで相席頼むよ」
両手に皿を持ちばたばたと忙しなく動き回る店の者が、奥の方を顔だけで指し示す。二人は大人しく従って、ちょうどぽっかりと空いた席に足を進めた。
「お隣失礼いたし……風柱様っ!?」
隣の席にいた先客に挨拶しようとしたなまえが、そこにいた人物を目にしてすっとんきょうな声を上げた。後ろの席にいた数人の男性客が「風柱?」「茶柱の間違いじゃねーのか?」と笑い声を上げたので、彼女と義勇を見上げた不死川実弥は、元々良いとは言えない目つきを更に鋭くさせた。
「し、失礼しました不死川様!」
「誰だァお前」
「私は隠をしておりましたみょうじと申しますっ」
一言挨拶をしたなまえは、恐縮して実弥の隣が義勇になるようそそくさと左右を入れ替わる。なまえと交代で顔を表した元水柱に、元風柱が目を見開いた。
「あァ?何で冨岡がここにいんだァ?」
「ここしか店が見当たらなかった」
相変わらずの調子だが、義勇の一言に実弥も「あぁ」と頷かざるを得なかった。この通りにはろくに食事できる店がないと、つい今しがた席に着いたのは実弥も同じだったからだ。
調子の悪いことに実弥もほぼ同刻に入店した為、注文したうな重がまだ来ていなかった。一瞬、このまま店を出ようかとの考えも実弥の頭をかすめたが、用意に取り掛かっている店主に悪く思い、彼は仕方なく我慢することにした。
沈黙の間中、実弥の胸中は穏やかではなかった。
あの不愛想な冨岡が何故女を連れているのか。隠と密かに関係を持っていたとは到底思えないあの冨岡が……。
「わ、私達同郷でして、ひょんなことで再会しただけなのです!」
訝し気に動かした実弥の視線が射貫くようになまえとぶつかってしまい、焦ったなまえが早口で事情を述べた。別に何も言ってないが、と胸の内で言い訳した実弥は、簡単に「そうかい」とだけ返してあとは出された冷水を見つめた。
冨岡と元隠の娘という謎の組み合わせの二人に出会った実弥と、居心地の悪そうな風柱に怪しい関係で見えているであろうことが気がかりななまえは、大いに気まずく、注文の品を待っている間中、言葉を発することはなかった。間に挟まれた義勇は、「二人とも今日は静かだな」「この店は立地に恵まれているな」などと思いながら、過ぎる時に身を置いていた。
結局沈黙を破る者はなく、うな重がほとんど同じ時に届いたのもあり、三人して黙々と食事をすることとなった。
特に柱を前にしたなまえの緊張は実弥の比ではなく、焦った彼女はこの場を出たい一心で味もよく分からないまま大急ぎで食事を済ませた。成人男性二人より早く食べ終わりを迎えたなまえは、おもむろに立ち上がって言った。
「お、お二人とも積もるお話がありますでしょうから、私は外でお待ちしております! お先に失礼いたしますっ」
積もる話などあってもすることはない実弥と義勇だったが、勢いよく盆を下げにその場を去ったなまえに圧倒され、二人はその後姿を眺めることとなった。
「すげェ勢いで食ってたな……」
知らぬ顔のなまえが出て行ったことで少し警戒の薄まった実弥が思わず呟く。
「確かに早かった」と、義勇は心の中で相槌を打った。
「……へんちくりんな娘」
義勇が何も言わないので、実弥が独り言のように付け足す。すると、横で黙々と食べ続けていた義勇が箸を置き、何か言いだしそうな気配を出した。実弥はそんなことは知らぬふりをして、味噌汁椀に手を伸ばす。
「なまえは……へんちくりんじゃない」
ちょうど味噌汁に口をつけていた実弥は、突然の義勇の反論に間違えて噴き出しそうになったが、しかし気を取り直した。口元に少しついた汁を手で拭った実弥は「へんちくりんな男にはそう見えるらしい」と脳内で結論づけることにした。
■
店を出た義勇は、なまえを探して周囲を見回した。
軒を連ねた店の前にはそれぞれ買い物客が顔を寄せ合っている。彼女が今日来ていた小紋の薄水色を頼りに視線を巡らせると、団子屋の前でしきりに声をかけられているなまえを見つけることができた。
「お嬢さん、餡団子、自信作だよ〜」
「うーん。今は食事したてでお腹がいっぱいなのよ」
「じゃあ土産にしたらいい。包んでやるから」
やや押しの強い店の主人に、なまえが応じようか迷っている。
(義勇さん、今もお団子食べるかな?)
なまえが迷っていると、後ろから注文の声が上がった。
「5本もらう。こしあんで」
「まいどあり!」
嬉しそうに応じる店主の声を背になまえが振り返ると、そこには義勇が立っていた。
「義勇さん!」
「土産にしよう。こしあんで良かったか?」
「うん!」
なまえが元気よく頷く。義勇と食べるものなら何でも美味しいから聞くまでもないと彼女は思った。
一方義勇の方は、素直で明るくてなまえはへんちくりんじゃないのにな、と思っていた。
■
夕刻に呉服店へ戻ると、注文品を受け取りに来た客で店内はごった返していた。
「これだよ、はい旦那、しっかり持ちな」
疲れを見せない女将はにっかりと笑い、隻腕の体など気に留めない様子で着物の入った桐箱を義勇に手渡した。自分が持つとなまえが申し出ても、義勇はそれを遠慮し、女将の方も「男を立たせるもんだよ」と窘めた。
そんなこともあり、帰り道は義勇が桐箱を、なまえが団子の土産やいくつかの食品を持って進むこととなった。
日が沈んできた川沿いの道は橙と紫が混ざって美しく、今日の日の充実感を際立てて演出した。
以前にはこの時間になれば、通りを進む人が早く家路につくようやきもきしたし、一人で出歩くことなども考えられなかった。
少なくとも「鬼」という危険要素がなくなった夜の始まりは、連れ立って歩く二人にそれぞれの感慨深さを与えた。
その感慨深さが吹き飛んだのは、屋敷へ帰ってすぐのことだった。
いそいそと桐箱を開けたなまえが驚愕して声を震わせる。
「こ、これ、違う方のお着物です……!!」
桐箱の中には、綺麗にたたまれた桜色の着物がおさめられていた。特徴的で目を引いた紅色の模様が目に入り、なまえはすぐに手違いがあったことを察する。
「ああ、それは」
義勇の言葉など耳に入らず、なまえはぐるぐると思考を巡らせる。
「はっ!そういえばお代……! お代っていつ払うんでしょう!? 私何も払ってない! ここここれ、後から取り立てに来たりしたらどうしよう……」
口元をおさえ一人勝手に青ざめるなまえに、義勇が改めて声を掛けなおした。
「なまえ焦るな。それは俺からだ」
「へ?」
取り立ての恐怖と唐突な義勇の言葉に理解が及ばず、なまえが間の抜けた顔をする。
「世話になっている礼だ」
「……?世話になっているのは私ですよ?」
ぽかんとした表情のなまえは次の言葉を待つ。
しかしそれ以上の発言はなく、義勇の譲らない様子に事態を飲み込んだなまえが、今度は違う意味で汗をかきだした。
「こっこんな、上等なお着物、い、いただけません!!」
確か女将はいい生地だと言っていた。自分の目から見ても、正絹の艶が美しい素敵な着物だ。恐れ多くて触れるのも躊躇してしまう。
あわあわとした彼女の様子に義勇は呉服店でのやりとりを思い出していた。
■
「なぁに突っ立ってんだい」
勢いのいい声に、「すみません」と一応の謝罪をすると、女将は企むような視線で義勇をじっと捕らえた。
「旦那、あの子にはこっちの方が似合う」
そう言って名物女将は皺をたたえた腕で桜色の着物を掲げて見せる。
「本人があちらを選んでいるので」
義勇が思ったままの言葉でそう返すと、女将はぎっと厳しい視線を義勇に投げつけた。
「あんたどこ見てたんだい。あの子は一目見てこっちを気に入ってたろう!」
まったくこれだから最近の若いもんは、女心なんてちっとも分かっちゃいないんだから、と目の前でぶつぶつ言われ、義勇はわずかに眉根を寄せた。
「こっちを用意してやるのが男ってもんだ。きっと大喜びするだろうさ。寸法は今測ってるものに合わせるから、悪いことは言わない。こっちにしときな」
「勝手なことをしたら嫌がるのではないだろうか」
「嫌がるもんかい!いいかい、もしあの子が遠慮したらその時は、『俺の顔を立てろ』ってビシッと言ってやるんだよ!」
(そういうものだろうか……?)
若干の疑念を持ちながらも、店主の先の発言を信じ、義勇は促されるままに桜色の着物を購入していたのだった。
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困った顔をしているなまえの前で、義勇は女将に文句を言いたい気持ちをぐっと堪えた。やはり勝手なことをするべきではなかったと思いつつ、こうなってしまってはもう、教わった通りにやるしかない。
戸惑いを精一杯隠して、義勇は口を開いた。
「受け取ってもらわないと困る。俺の……」
「??」
「……俺の顔が立たん」
一瞬、座敷はすべての音を失い、しーんとなる。
しかしすぐに、なまえが三つ指をついて頭を下げた。
「ごっごめんなさいっ! 失礼しました! わ、私、そんなつもりではなかったの!」
なまえが急に謝りだしたので、義勇は自分の言った言葉の効力にぎょっとする。
「本当は……本当は私、こちらの方が素敵だと思った。けれどあんまり上等で身に余ると思って……」
義勇は感心した。なまえが本当にこちらの着物を気に入っていたとは。
「嬉しいです。生涯大切にします」
感謝の声色に、心からの喜びがにじんでいる。
「本当にありがとうございます」
再び深々と頭を下げた後、なまえがゆっくりと顔を上げる。彼女の目は感激に潤み、頬はほんのりと上気していた。
それから後は就寝時間に至るまで、義勇の目から見てもなまえは喜びを抑え切れないといった表情であった。
いつになく口元や頬を緩ませては、時折目を瞬いたり口を閉めなおしたりしている。
義勇と話す時は、敬愛の浮かぶきらきらした視線と意識的に固くした頬や唇がちぐはぐで、ぎこちないほどであった。
座敷に下がる挨拶をしようとした際、なまえが愛おしそうに、そうっと桜色に指を這わせているのを目撃した義勇は、その夜、名物女将の手腕に心底恐れ入った。