こわい話
 これは私が、アルバイトをしているお店で実際に体験したお話です。

 私は近所の定食屋で、バイトをしています。そのお店は所謂メガ盛り……大盛りを越えた量のド派手な盛り付けで界隈では名を馳せているお店で、良心的な値段設定と感じのいい奥さんが評判の人気店といった定食屋です。

 元々この店はご夫婦で切り盛りされており、こじんまりとした雰囲気であったのですが、お子さんにも恵まれ、忙しさからバイトを募集したそうです。

 私は運よく手始めの、最初の一人として採用されるに至ったのですが、もしかするとこの時から不思議な体験が始まっていたのかもしれません。
 友人に採用を打ち明けると、店を知る多くの人が首をかしげましたし、実際に私自身、不安を覚えたと言っても過言ではありませんでした。

 この定食屋は、前述した通り数々の魅力に溢れているお店ですが、とりわけ奥さんの感じの良さは群を抜いて素晴らしいものがあります。店を訪れた多くの客は、感想に彼女の感じの良さをあげますし、面接を受ける前、既に常連であった私も、この店、とりわけ奥さんの雰囲気が好きだったものです。

 しかし、この店に通えば通う程、奇妙なことに気が付くのです。

 にこにこと愛想が良く、華やかで愛らしい、女性の魅力を凝縮させたような奥さん。明るく元気いっぱいな奥さんが、何故あの陰険な雰囲気の店主と結婚に至ったのか。

 この店の店主は、奥さんの雰囲気に比べるとまるで逆の印象を持ちます。
 髪は漆黒。男性にしては妙に長く、しかも散切りなのか毛先のまばらな髪を一つに結っています。また、常にマスクをしており、素顔を明かすことがありません。
 そして極めつけは鋭い目つき。蛇のような険しさで客を睨むこともあるとか、ないとか……。

 基本的に言葉を発することはなく、客を見てもにこりともせず厨房の奥で蠢いているばかり。
 奥さんの方はせっせと客の相手に大忙しで、どう見ても対等な関係には思えなかったものです。

 そして私は唯一、アルバイトとして店の一員になったのですが、ここで更に奇妙な体験をすることになります。

 どうやらあの感じのいい奥さんは、この蛇のような陰鬱さを感じる店主にぞっこんのようなのです。ぞっこん、という表現が古いかどうかは関係ありません。この言葉で表すより他ならないほど、夢中なようなのです。首ったけです。

 私は最初、これはもしや人のいい奥さんがこの蛇店主に洗脳されているのではないかと恐怖を感じました。この人気店の、知ってはいけない場所まで踏み込みすぎたのではないかと、心が震えたのを覚えています。

 そこで私は、いつでも辞める覚悟でこの夫婦を注意深く観察することにしました。

 大きな出来事が起こったのは、それからすぐのことでした。
 店主がぎらぎらとした目で接客中の奥さんを監視していたのです。これはある意味いつものことなのですが、その日は身の毛もよだつ展開が待ち構えていました。
 店主が客席の方へ向かって、包丁を投げたのです。二人しかいなかったお客さんは一目散に逃げかえったのですが、私は恐怖に足がすくむような思いをしました。

 そしてもっと恐ろしかったのは、人のいい優しいはずの奥さんが、壁に刺さった包丁を見ても「びっくりしたぁ〜」といつもの可愛らしい調子で呟き、言葉で言っているほど驚いている様子がなかったことです。

 私はその時、確信しかけていました。
 おかしいのは店主だけじゃない。奥さんもまた、どこかが変わっていると。

 それからも私は危険を顧みず、この身を挺して観察を続けました。
 今ではもう自分もすっかりとこの店に取り込まれてしまったように思います。そう、私もこのご夫婦の在り方からは抜け出せない身体になってしまったのです。



 真相はこうでした。

 まず店主は、厨房で蠢いているようで常に奥さんを見張っています。いや、見守っているのです。
 変な客に絡まれようとしたものなら、ぎろりと客を睨みつけ凄みます。そういった客には二度と来店されなくて構わない。悪い噂を立てられようとも、奥さんに指一本触れさせない気概を感じます。

 そして店主は接客していないと思いきや、奥さんが手を離せない状況になるとすぐに厨房から客席の方へ出てきます。俊敏なのです。愛想はそれほど良くありませんが、奥さんが困る前に必要な作業は全て行う綿密さが見て取れます。

 極めつけに見てしまったのですが、店主は笑います。目の奥で笑います。
 それも、奥さんを見つめている時だけ。賄いをご一緒させていただくことがあるのですが、「あ、この店は奥さん主導で立ち上げたんだな」と分かる程、ここの奥さんはよく食べます。しかも美味しそうに食べます。
 私から見ても惚れ惚れとする食べっぷりなのですが、ある時蛇店主がそんな奥さんの気持ちのいい食べっぷりを愛おしそうに、神々しいものを見るような目で見つめていることに気が付きました。
 鬼の目にも涙ならぬ、蛇の目にも笑顔、の瞬間でした。

 あと蛇店主は私や普通のお客さんのことも、奥さんほどではないけれど、案外細やかに気にかけてくれます。

 あと、奥さんは柔らかそうな見た目に反して結構筋肉質で、めっちゃ力持ちだし壁の包丁も余裕で抜けます。


 そんなメガ盛り定食屋で働き出してから数ヶ月。
 今はこのお二人の関係が癖になって、目が離せなくなってしまいました。気分が高揚したり、鼓動が早まったり、何度でも味わいたくなって、頭から離れず胸がいっぱいで……私はもう、この店を絶対に辞められないのではとすら思ってきています。

 この後就職先を考えたりしなきゃいけないのに、と思うとめちゃめちゃこわい。


 以上が、私が今現在も体験し続けているこわい話の顛末です。
 ご清聴いただき、ありがとうございました。
 

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