伊黒夫妻の授業参観
 授業参観を控えた教室の中は、高揚した空気に満ちていた。

 親が現れるのを心待ちにした生徒達は、各々後ろを振り返ったり、にこにこ顔を浮かべたりと興奮を隠しきれない様子だ。教師の助言を無視して椅子をがたつかせる子、友人とのお喋りに興じる子。一年生の教室は、そんな慌ただしさに包まれていた。

 一方なまえは一人、憂鬱な気持ちを抱えて教科書を机の上に並べていた。
 ワイワイと賑やかな雰囲気は好きな方だが、今日はどうにも気持ちが塞ぐのだから仕方がなかった。





「い、今何時かしら? 間に合うかしら!?」

 淡いピンク色のワンピースに身を包み、若草色のスカーフを巻いて上品に決め込んだ蜜璃は汗ばんだ胸元をはたはたと仰ぎ、急足で進みながら小芭内へ時間の確認をする。

 艶のある黒髪を揺らした小芭内がそれに答えた。

「ああ、開始まであと5分あるから慌てなくても大丈……」
「ひゃあぁっ!!」

 慌てないよう声をかけられた側から、履きなれないスリッパで階段を踏み外し、蜜璃がすっとんきょうな声をあげる。小芭内がすかさず腕を掴んだので、幸いにして決め込んだ出で立ちが崩れることはなかった。

「あ、ありがとう!私ったら焦ってて……ストッキング破けてないかしら!?」
「ああ、問題ない。十分、なまえを喜ばせられるから大丈夫だよ」
「ふふ、そうよね!」

 なまえはこの春小学校に入学した。母親である蜜璃は初めての授業参観に大変張り切っていた。娘にとって自慢できるような母でありたい。身支度に念を入れた蜜璃を、気張らなくとも充分にいい母親だと小芭内は思う。お友達に笑われないかしら、他のご父兄にちゃんとご挨拶しなくちゃ、と頭の中がいっぱいになっている彼女はいつものように等身大に一生懸命で、とても愛らしい。

 伊黒夫妻が階段を登りきると、ほどなくしてなまえのいる教室が見えてきた。

「わぁ! 絵が飾ってある! どの子のも可愛いわねえ〜!」

 蜜璃につられ小芭内も足を緩めたその時、教室の中で教師が自己紹介を始めるのが聞こえ、2人は揃って後ろのドアから入室した。

 教室の後ろでは他の保護者が横に広がって子どもたちを眺めている。
 ぺこぺことお辞儀をして僅かな隙間に蜜璃が入り込み、蜜璃の隣の保護者が広げてくれたスペースに小芭内も軽く会釈して収まった。

 ぱちぱち瞬きし、きょろきょろと視線を動かしながら弾む息を整える慌ただしい蜜璃にも目を配りながら小芭内はなまえを探した。
 先程廊下を通った時、ドアの窓から一瞬見えた子がそうではなかったか。窓際の、前の方に座っている。

「あ!いたいた!見て小芭内さん!」

 愛娘の後ろ姿を捉えた蜜璃は、溌溂とした笑顔で夫に目くばせし、小芭内もそれに応じた。
 
 伊黒夫妻は、夫婦で定食屋を営んでいる。店の評判は嬉しいことに上々で、平日の午後である今の時間、本来であれば手が離せないほど忙しい。しかし小芭内と蜜璃は、店を開いた時に家族の絆を第一にしようと誓い合った。そこで今日は、店を信頼できるアルバイトに任せ、授業参観の時間を捻出したのだ。

 娘の驚く姿を楽しみに教室の後方へ収まる蜜璃は、なまえが振り向き目が合う瞬間を今か今かと待ち構えていた。

「なまえちゃん、振り向かないわねぇ……」
「ああ」
「うーん、名前呼んだら駄目かしら」
「それはやめておこう……」

 蜜璃は小芭内の判断をとても信用しているので、声をかけたい気持ちをぐっと堪えて見守った。しかし残念なことに、蜜璃の熱視線が届くことはなく授業は終わってしまったのだった。



 がやがやと帰り支度をする時間になった。
 教科書を机上に出したり、ロッカーにランドセルを取りに動く子ども達、そこに声をかける保護者で教室の中はごった返す。混雑を避けて廊下へ出れば、親同士の挨拶などが繰り広げられていた。

「もしかしてメガ盛りのお店をやってらっしゃる……?」

 数人の母親から声をかけられた蜜璃は緊張を隠さないまま挨拶を返した。

「はい!伊黒なまえの母の蜜璃と申します!いつも娘がお世話になっております!」
「あら!なまえちゃんとは娘が親しくさせてもらって……」
「あの定食屋さんなまえちゃん家だったのね〜!」

 女性の会話は一度華やぐと騒がしい。あわあわと、やや構えてはいるが、嬉しそうに話す蜜璃の様子に、自分が横にいては邪魔になるだろうと小芭内は飾られていた絵を鑑賞しに移動した。

「お父さん!」
 聞きなれた声で、聞きなれない呼び名を耳にし、小芭内がふと周囲を確認すると、にこにこした表情のなまえが横に立っていた。いつもより、しっかりして見える。様子を見るに、振り向かなかっただけで両親が来ていることに気が付いていたようだ。
 小声で「外ではお父さんって呼べって言ってたでしょ?」とはにかみ、てへへと父を見上げ笑うけなげな姿に、思わず小芭内は娘の頭を撫でた。

「見てみて、かぶちゃん書いたの!」

 手を引かれて見てみれば、小芭内が探していた視点よりやや右側へ寄ったところになまえの絵は飾られていた。展示のテーマは図工で書いた「好きな動物の絵」だ。猫や犬、うさぎにハムスターなどファンシーな絵が連なる中、異色の作品としてへびが描かれているのを見て小芭内は微笑む。伊黒家では「かぶちゃん」は商売繁盛の守り神で、家族みんなが彼を慕っている。

「よく描けてる」
「ほんと?」
「父さんの方がうまいけどね」
「なにーー!」

 怒ったように見せたなまえは、父の腰の辺りをぽかぽかと叩いてみせる。
 テンションがいつもよりやや高いのは、ほとんど調理服姿である父親が美しい髪を綺麗におろし、スーツをビシッと着こなしていることに興奮しているからだ。ブラックのシックなスーツにストライプのネクタイを決めた小芭内も、蜜璃に負けず劣らずスマートに仕上がっていた。
 なまえとしては、普段縛っていてもったいない黒髪や、すらりとした父の気高い雰囲気を友人たちの前で披露することができ、嬉しくて気恥ずかしくて堪らなかったのだ。



「それでね、ご家族で何度かうちに食べに来てくれてたみたい!また今度遊びに来るって」
「ほんと!?やったー!」

 なまえを真ん中に、手を繋いで進む帰り道。
 蜜璃には早速複数の友人ができていた。なまえの友人家族が実は密かな常連であったことを夫と娘に報告した蜜璃は、はっと思い出した。

「そういえば、いつママに気が付いたの?ずーっと視線送ってたのよ!」

 質問を受けたなまえは、もじもじしてやや視線を下げ、足元にあった小石を軽く蹴飛ばす。

「ママとパパが階段上ってきたとき」
「あら!」

 思っていた以上に早く気が付いていたなまえに、蜜璃はぱちくりと瞬きする。

「でも、お昼後でまだ忙しいから無理だと思ってた。本物か確かめるのが恐くて、振り向けなかった」
「なまえちゃん……」
「パパとママ揃って、どうして来られたの?お店はどうしたの?」

 蜜璃は胸が強くきゅん、と締まるのを感じた。伊黒夫妻はなまえが、忙しい両親に遠慮して授業参観について言い出せなかったことを知っていた。昨夜書類整理をしていた蜜璃が、処分されたプリントの中に授業参観のお知らせがあるのを見つけ、急きょ今日の日の計画を夫婦で話し合って決めたのだ。
 小さな胸の内でこんなにも両親を気遣ってくれる我が子を想うと、鼓動の高鳴りを抑えることなんてできない。

「なまえちゃんを見たいから来たのよ!お店のことならだーいじょうぶ!心配ご無用!!」

 ふんふんと鼻を鳴らし、頬を紅潮させ握った手に力を入れる蜜璃を見て、なまえの顔は、両親が望んだ満面の笑みに変わる。

「ママ……パパ……ありがとう。私、嬉しかった。優しくてお料理が上手で、可愛くて、かっこよくて、私の自慢のパパとママ!友達に見せたかったの!!!」

 母似の、気持ちを明るくさせる笑顔だ。
 娘の嬉しい言葉を受け、慌ただしい参観で母として上手に振る舞えたか心配していた蜜璃の瞳から、思わずぽろりと涙がこぼれる。

「わ〜〜〜んなまえちゃんこそ自慢の娘だよ〜〜〜!!」

 屈みこんだ蜜璃が勢いよくなまえを抱きしめると、呼応するようになまえも声をあげた。

「わ〜〜〜んママぁ〜〜〜大好きだよ〜〜〜!!」

 急に泣き出す情緒の激しい妻と娘を見て、小芭内が焦ったように声をかける。

「い、家まで堪えるようにしよう」

 メガ盛り定食屋を営む伊黒夫妻の、悩める授業参観はこうして大成功(?)を収めたのであった。

伊黒夫妻の授業参観

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