2話
さわさわと枝葉の出す音が二人を包む。なまえはもじもじと葉を握ったままの手を膝に乗せ、改まった姿勢を取った。かつての友とはいえ、もう何年も水柱として尊敬していた義勇を前に、これ以上の言葉は出なかった。「……追われていたというのは」
聞いてもいいものか一瞬迷いつつ、義勇が疑問を口にする。
ともに逃げてきたのだから聞いても差支えはないだろうと思われたが、急になまえの表情から笑顔が消えたので、やはり触れるべきではなかったかと義勇は内心反省する。会話というのは難しい。
義勇が別の話題をうまく見つけることができず沈黙しているうちに、なまえがぽつりぽつりと語り出した。
「先程仰られたように、鬼殺隊はなくなりました。喜ばしいことです。私は、普通の娘になりました」
意を決して改まったからか、なまえの口調がまた他人行儀になる。彼女は指先の葉を半分に、それを重ねてまた半分にちぎりゆく。
「普通の娘はこの年頃では結婚いたします。私も身を固めるよう、多くの方から言われまして」
なまえの指先でちぎられ重なった葉が、話が詳しくなるのにつれて厚みを増していく。
「それが…笑わないでくださいね。出ている縁談のお相手は、冨岡家の遠縁なのです」
すっかり敬語に戻ってしまった口調に、今度はもう義勇は何も言わなかった。
「遠縁……」
「お医者様をされている方です」
それを聞いて義勇はすぐに分かった。かつて自身が連れていかれそうになった家であろうと。
自分は病ではないのだと隙を見て逃げ出し、結局行くことはなかった遠縁の親戚。必死に逃げたゆえに嫌な印象しかないが、思えば当時は面倒を見てくれるというのに悪いことをしたかもしれない。機会があれば挨拶に行くのも悪くない、などと義勇は想い馳せる。
「隠になる前です。じっ、じつは……」
「……?」
それまで濁りなく話していたなまえの口ぶりが途端にどぎまぎとし始めた。
「風の噂で、ぎっ義勇様がそちらに身を寄せたとお聞きし、訪ねたことがありまして……」
なまえは気まずそうにそこで一旦区切った。余計なことをしたと思われはしまいか、何故そのようなことをしたのか訝しがられはしまいかと、義勇の様子を恐る恐る窺っている。
一方の義勇は、消えた友人の消息をそこまで気にかけるとは親切なものだ、と自身にまつわる話題でありながらさほど気に留めず聞いていた。
義勇の分かりづらい表情を前に、一息吸い込んでなまえは続けた。
「当時医院を開いてらしたご主人と奥様は、私のような者の突然の訪問にもご親切にとても良くしてくださいました。義勇様がいらっしゃらないことはその時に知ったのですが……訪問をきっかけに、あちらのお家とたまに文を交わすようにもなりまして……」
なまえの気まずそうな口ぶりはなおのこと際立ったが、義勇はそれをぼんやりと聞いていた。自分が関わった時はそこまで親切には感じなかった親戚、あれは俺が幼かったからなのだろうか、等と考えながら。
「……私、冨岡の家であれば、また義勇様にお会いできるかもしれないと思って……その、ご縁を大切に思っていたのは事実なのです」
彼女の弁明めいた論調を受け流しながら、ああ、なまえもそうだったのか、と義勇は思った。自身もこのように再会できたことを少なからず懐かしく喜ばしく思えたからだ。
しかしなまえはそこで一度長く言葉を失った。
「……」
青ざめたように俯くなまえを義勇が覗き見る。ちぎった葉をまとめて持つ指先に力が入っているのか、白く血の気がひいている。
「なまえ、」
「いつからか、文の差出人が夫妻の御子息様に変化してゆきました。私はきっとお忙しいご両親の代わりに連絡をくださっていると思っていたのですが…」
突然びゅおっと強い風がふいて、あ、と小さい声と共になまえの指先の葉が奪われていく。ちらちらと舞ってそれは足元から遠いところへこぼれ落ちた。
「隠になってからは不義理なことに連絡をお返しすることもままならなかったのですが、届いていた文は山ほどあり、その全てが私の身を案ずるものでした。隠ではない身になり、改めて数々の不義理をお詫び申し上げようと、最後のご挨拶のつもりで文を出したのですが…」
なまえの様子に不穏な空気が漂う。
義勇は違和感を強めた。あの家の者はそんなに熱心だっただろうか。印象の悪さゆえの思い違いか?ひとり息子を大層甘やかしていると、子ども心に苦く思っていたことが頭をよぎる。
それに何年もなまえに文を出し続けるというのは、些か執着が強すぎる。
親戚はなまえづてに、かつて良からぬ縁の切り方をした自分の消息を探ろうとしているのではないかと義勇は穿った見方をした。
「それで」
大人しく聞いていた義勇が思わず自分の方から先を促すと、なまえは大変気まずそうに視線を下げて続けた。
「それで……その、文を出してすぐ返事が参りまして、御子息様が私を妻に迎えたいと……。私の方はこんな家の出ですので、ご遠慮申し上げましたが、お前を許嫁と思い待っていたと言うのです」
悲痛な口調で、彼女は後半を一息に言い切る。
思っていたのとは違ったが、それはそれで想像を超える展開に義勇も目を見張った。彼女と遠い親戚になるとは不思議な縁だ、とややずれのある理解ではあったが。
「そんな約束……会話をした覚えもございません。だけど、分かってもらえなくて。私のような身寄りのないものを、立派なお宅の嫁に迎えてくださるというのです。私には断る理由がありません」
時折混ざる崩れた言葉遣いに、なまえの必死さが滲む。
しかし義勇には、あまり悪い話にも聞こえなかった。親戚の家を個人的には好ましく思えないが、とはいえ嫁ぐのに十分な家柄であることは間違いない。
ましてや義勇には、男女の仲というのはことさらよく分からない。炭治郎と胡蝶の継子が恋仲になっていたことなどつゆ知らず、宇随天元に「相変わらずの鈍さだな」と評され絶妙に傷ついたのは記憶に新しい。ゆえに義勇にはこれと言ってかける言葉が見つからなかった。
「……私の覚悟が足りずに大変情けないことではありますが、返事の遅さに業を煮やした御子息様が突然家にやって参りまして」
「よほどなまえのことを気に入っているんだな」
義勇は思ったことを口にしたまでで、何なら女としてのなまえを褒めるようなつもりもあったのだが、なまえが視線を落とした上に風が止み、辺りが静まり返ってしまったので、「自分が何か言うといつもこんな雰囲気になるな」と感じざるを得なかった。
「それで、いつ来たんだ?」
ひとまず話を最後まで聞き切る為に義勇は先を促すことにした。
「さっきです」
「さっき」
「……はい」
「それで」
焦ってはだけた着物。追われているとの言葉。みなまで言わなくても想像はつく。
「留守を装おうと、咄嗟に逃げてきてしまいました……」
隠をやっていたなまえにとって、姿を見られていない状況で逃げる程度なら容易なことだった。しかし着物姿であったことと、相手の執念深さが災いし、近くにいることを気取られてしまった。そして話は、二人の再会した瞬間に繋がる。
手のひらから血を出しても逃げたいほど焦っていた様子を思い出し、鈍い義勇にもなまえの戸惑いはひしひしと伝わった。ろくに会ったこともない人間と一生を添い遂げるのは、確かに勇気のいることであろうと思われた。
「そういえば手は」
「?」
「血が出ていただろう」
「あっ……こんなのはかすり傷です!恥ずかしい……」
両手をすり合わせたなまえは、逃げてきたことも含めて誤魔化すように苦笑いした。
■
鬼殺隊を始め、鬼を知る人間は長く「鬼のいる世」に翻弄されて生きてきた。
義勇もなまえも、「鬼のいない世」に慣れておらず馴染みきれていなかった。
「今日は本当に……とんだご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「いや」
話ができて楽しかった、と義勇は思ったがそれが言葉になることはなかった。
眩しい夕焼けの中を連れ立って歩くのは子どもの頃以来で、それは二人ともが思ったが、しかしこれも会話になることはなかった。
「普通に生きるのって、難しいものですね」
「ああ」
「でも……一生懸命生きていきたい」
声にはならなかったが、義勇はしみじみと頷いた。
まだ道は定まっていないが、繋いでもらった命を自分も繋いでいこうと、今はそう、強く想えるからだ。
一人で帰ると申し出たなまえを、同じ道だからと義勇が送る形になった。
なまえの家に行きつくと、途端に彼女は恥ずかしそうになった。
「ぼろ家で……柱の皆様のようなお屋敷とは違うので、みっともないでしょう」
「そんなことはない」
「あっ!ちょっとだけ、お待ちください!」
そう言ってなまえは家の中へ一度姿を消した。
親しくしていた隣人から祖母が譲り受けたという古い家があり、なまえは鬼殺隊解散後、ひとまずの住まいとしてそこを寝起きに使っている。人が多く住む長屋通りと商店街が道を挟んだ目と鼻の先にあるので、そこへ手伝いに出て目下の生計を立てている。
しかしながら、なまえの住む家は周囲から独立した造りになっているので特に夜間は寂しい場所であり、それもあって早く結婚した方が良いと急かされていたのだ。
義勇はぼうっと家の造りを眺めた後、この周辺は夜間は特に暗いであろうこと。鬼……の心配はないにしても、一人で大丈夫なのだろうかと、近隣住民と同じように彼女の身を案じた。
そうとも知らないなまえは、はつらつとした顔で玄関へ戻ってきた。
「義勇様!ほんの気持ちですが、お礼に。先日お野菜を沢山分けていただいたので、是非お持ちください!」
そう言って、彼女は風呂敷の包みを差し出した。義勇はまだ利き腕を失った生活に完全に慣れたとは言い難く、料理は到底できそうになかったが、そのままかじれば良いかとありがたく受け取った。
「では」
「では」
全く同じタイミングに言葉を発して、二人は思わず視線を合わせた。
今度お茶でも、だとか。
また是非遊びに、だとか。
頭をよぎらなかった訳ではないのだが、なまえが元柱にそのような口を聞ける訳もなく、また義勇の方も私的な約束を交わすのに適切な距離の取り方を心得てはいなかった。
妙な間の沈黙に耐えた後、なまえが「お気をつけて」と言葉を添えたのを受け、会釈した義勇は振り返り帰路についたのだった。