雨上がり
 冨岡義勇、十四歳。
 鬼殺隊の若き隊士は、無力感に苛まれながら、藤の花の家紋の家への道のりを進んでいた。ひどい徒労感に襲われ、見知らぬ土地で、一体自分は何をしているのかという孤独に蝕まれている彼の足は重い。眼前をぽたぽたと落ちる滴を、涙のようだと義勇は思った。
 人攫いが出ているという地域に調査へ向かったのだが、状況が芳しくなかった。人々は警戒から余所者に過敏になっており、なかなか重い口を開こうとしない。鬼について説明しようと食い下がったところ、桶に溜まっていた雨水を浴びせられ、帰るよう罵られたのだった。

 今夜にもあの地域に鬼が現れるかもしれない。その危険性について、自分に充分な説明が果たせたとは思えない。被害の一つたりとも出す訳にはいかないのに。
 鈍い重みを携えた胸を抱え、義勇は玄関戸に手を伸ばす。その時、一瞬早く戸が開かれた。

「冨岡様!!」

 明るい声をあげたのは、この家に住むなまえだ。義勇より数歳年下の溌剌とした娘で、いつも威勢がいい。義勇に懐いている彼女は、顔を見るなり嬉しそうな声をあげ、そして直後に驚きの声をあげた。

「びっ、びしょ濡れではありませんか! いかがされたのですか!?」
「……雨に、降られた」

 なまえに素っ頓狂な声を上げられ、事態を落ち着かせようとした義勇は咄嗟に嘘をつく。するとなまえは「では、少々お待ちくださいませ!」と大慌てで廊下の方へと駆けて行ってしまった。

「ぁ……」

 止める間もなく進んだ後ろ姿が廊下の角に消えたのを見て、義勇は罪悪感に襲われる。
 また、言うべき言葉を間違えた。真意を伝えるのが上手くない。間も無く拭くものを持って戻ってくるだろう彼女を思うと、自分などのために働かせてしまったことが申し訳ない。義勇が下げた視線で廊下の床板をぼんやり眺めていると、予想通り、なまえはタオルを抱えて戻ってきた。

「冨岡様! これをお使いになってくださいませ!」

 なまえは加減を知らぬのか、両手にわんさとタオルを抱え、誇らしげに差し出そうとする。義勇が突っ立っているのを見て、彼女は敷台に一旦タオルを置き、二枚ほどを持って玄関へ降りる。

「濡れていると、あたたかく感じますよ」

 それがどんな風に心地よいか知っているという表情で、なまえが義勇にタオルを差し出す。
 義勇は促されるまま一枚を受け取り、張り付いた前髪を引き剥がすように額をこすった。なまえはしばらく義勇の様子を窺っていたが、あまりの反応の薄さに、やがて意を決したように口を開く。

「わ、私の母はこうしてくれます! 失礼いたしますっ!」

 彼女は早口にそう宣言すると、もう一枚のタオルを、そっと義勇の頬に押し当てた。ぬくもりが、じんわりと義勇の頬を包んでいく。

「あたたかいでしょう?」

 優しくあてがわれた生地は、本当にあたたかかった。水分と一緒に幾許か、隠れていた自己への憤りや失望が吸われていくようで、義勇はこくりと頷いて彼女に同意してみせる。

「……濡れたら拭くのです」

 突然、ぽつりと彼女が呟いて、義勇はなまえを見つめた。その視線に気付かず、なまえはままごとの母さん役よろしく丹念に義勇の肌を濡らしている水分を押さえ拭いていく。

「母がよく言います。濡れたら拭く、乾かす。避けられず濡れることも多々あるのだから、それで良いのだと」
「……」
「お掃除をする時や片付ける時、それをいつも思い出します。濡れたら拭けば良い、汚れたら磨けば良い、散らかったら集めれば良いって、」

 そこまで言って自分の言葉のしつこさに気がついたのか、彼女はごまかすようにふふふっと笑みを漏らす。白い歯が覗き、彼女の屈託のない様が伝わるようだ。

「だから冨岡様も、雨は災難でございましたが、乾きますから……、どうか落ち込まないでくださいませ!」

 太陽のように輝く笑顔を向けられ、義勇は彼女に絆されるような心持ちになった。義勇が黙って見つめていると、なまえの忙しない顔は今度目を丸くし、「あっ」と口を開いた。

「こちらにはまだ雨が来ておりません! 母に洗濯物を取り込むよう伝えて参ります!」

 手に持っていたタオルを義勇に差し出し、彼女は情けなさそうに眉を下げる。

「わたし、恥ずかしながら竿にはまだ手が届かないんです」

 照れ笑いしてなまえは一歩足を下げる。しかし振り向こうとした彼女を、義勇は急いで止めた。

「必要ない」
「?」

 不思議そうに首を傾げる彼女に、義勇は続ける。今度は、嘘ではなく。

「……雨はもう、上がった」

 口にしてみて腑に落ちる。帰り道に比べればほんの少しだけ、本当に気分が晴れていた。
 濡れたら乾かすように。彼らとの接触については、また違う方法を試せば良い。
 胸のつかえは溶けゆくようにましになり、さざめいていた心がしんと落ち着いていく。

 深い悲しみが拭われることはないけれど。
 それでもまた、鬼を狩るのだ。自分にはそれしかない。
 押し当てたタオルから香るこの家の匂いに包まれ、義勇は意識を切り替えていく。

「あっ! そうなのですね!」

 義勇の言葉を素直に聞き入れたなまえは、母の元へと急いだ勢いのまま玄関の外へ飛び出し、空を仰いで確認する。

「それならば、ひと安心です」

 なまえは上を向いたまま、安堵の声を漏らした。

 空模様を感じ取ろうとする無垢な瞳に景色が写り込んで、彼女の目はきらきらと輝いている。
 その瞳の中に、義勇は久方ぶりの青空を見た。
 天はどこまでも高く遠く、決して手が届くことはないのに、しかし必ずそこにあって、いつも彼を見守っている。

雨上がり

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