母の過ち
「信じられない」こめかみに青筋を立てた父がぶつぶつと文句を言う。私はそれを苦い気持ちで見つめる。
あれが気軽な挨拶で、よく交わされるものだなんて、父には到底考えられないという。
私は、そうとは思わない。
クラスに転入生がやってきた。米国帰りの帰国子女。子女、と書いても男の子だ。
英語を話す彼にみんな興味津々で、私たちのクラスは大盛り上がり。日本語はほとんど話せないというが、リアクションが大きく人懐っこい彼はすぐに輪の中心人物になった。
ある時彼が通学路で見かけたと、片言の日本語で「メガモリ」と話し、私たちはまた大いに沸き立った。
「それってお前の家じゃんか」
「美味しいよー! 絶対行った方がいい!」
両親が営むメガ盛り自慢の定食屋は、この辺りではちょっとした話題の店だ。同級生もよく来るし、「若い頃はこの店にお世話になった」と有名人が語り、テレビ取材が来ることもある。教室でこの話題になると、私も内心嬉しくて堪らない。それで、帰宅後家族にその話をしたのだ。
まあー!と大きな声を上げた母は、「看板を見てくれたのね。嬉しいわっ!」と花の咲くような笑顔をして喜んだ。
そして父だって言ったのだ。「今度連れてきなさい」と。
それで私は次の日、早速彼と同級生を我が店に招待した。事件はそこで起こったのだ。
歓迎会を兼ねて、みんなでワイワイ盛り上がったところまでは最高だった。父は黙々と調理し、母がそれを並べていくと、彼は見事なリアクションで「ワオ!」「メガモリ!」と喜んでくれた。
無事に解散の運びとなった時だ。互いに別れの挨拶を交わす中、彼は私を見て大きく手を広げた。
「アリガト! see you later!」
感激と感謝を込め彼は私を軽く抱きしめ、挨拶した。その流れはとても自然なもので、同級生も微笑ましく見つめたり、俺も私もと後続ができたくらいだった。
その時父が厨房で殺気立っていたことなど、私は露ほども知らなかった。
「という訳でお父さんの機嫌がすこぶる悪いの」
「ええっ! 裏に行っていたから私全然知らなかったわ!」
「今日の厨房の手伝い、気まずいからお母さんなんとかしてよ」
しかし、殺気立つ父とは反対に母は色めき立っている。
「どどどどう? ドキドキはしたの? もう〜! 青春ねっ!!」
照れて背中をばしばしと叩く母は、今回も加減を間違えている。母は華奢な体に見合わず、少し力が強い。
「あれはただの挨拶だよ。彼すごく喜んでたし」
「感情表現豊かな子だったものね! 出そうか迷ってた新作オムライス、あの子の反応で決心ついたわ!」
「でしょ? なのに下心があるとか、もう近寄らせないとか、お父さんおかしい」
「そりゃあ、可愛いあなたが、心配なのよお」
母は、可愛いあなた、と口にして、実際に可愛く思ったのか私の頬を両手で包み込み、満足そうにん〜〜っと声を漏らす。その柔らかな手に撫でられると、悪い心地はしない。水仕事が多いのに母の手がふっくらつやつやしているのは、他でもない父が作業分担やケアに気を使ってくれるからだ。
父は決して悪い人ではない。けれど、家族のことになると時々厄介な一面を見せる。
「お母さんからも言ってよ」
「なんて?」
「あんなのは、ただの挨拶だって」
「よぉ〜し! 分かったわ! 可愛いあなたのために、ひと肌脱ぐわねっ!」
フンフン鼻を鳴らした母が、腕まくりをする。どんな時にも頼れる母のことが、私は大好き。
学校帰りに着替えて入った厨房の空気は最悪だった。
エプロンの紐を縛りながら様子を見る。父はこちらをじろりと睨み、一言「おかえり」と言ったきり、温め中の鍋の油を見つめている。いつもだったら「変わりはないか」とか、「困ったことがあったら言いなさい」とか言うのに、少し寂しい。父が私を困らせている。それとも、私が父を困らせているのだろうか。
何だか気持ちが落ち込んできたところで、テーブル拭きをしていた母が厨房内に戻ってきた。
「困ったわ!」と父に聞こえそうな独り言を言っているけれど、声が大きい。母はあまり、演技が上手ではない。
「お昼の買い出しで、買い忘れをしちゃったわ! 小芭内さん、今のうちに行ってきてもいいかしら?」
「? まだ準備中だし、一緒に行こうか」
「うっううん……! いいのよ、いいの! すぐに終わるから!」
「……そうか。君がそう言うなら」
いつもだったら是非にと答える母に断られ、父のテンションが若干下がる。これじゃ、この後の厨房内は余計に気まずいぞ、そう思った時だった。
「じゃあ、行ってくるねっ」
「ああ」
「…………」
「…………」
エプロンを外した母は、入口に向かわず父へと距離を詰める。不思議に思った父は、母の方を振り向く。
それから突然、母はひと思いに父へと抱きついた。父は菜箸を置き、自然に母を抱きとめる。
昼下がりの厨房で、抱き合う父と母を見る私の心境よ。
誰も話さない厨房で、換気扇の音だけが響いている。
見守っていると、母は自分から抱きついておきながらカチンコチンになって身体を離した。紅潮した顔に汗を噴出させ、片手で必死に髪を撫でつけながら、母は反対の手をそうっと上げる。そして、「し、しーゆー れいたー……!」と告げると、向きをくるりと変え走り出して一目散に厨房を抜けていった。
母は、挨拶をしたのだ。よくある、ただの挨拶。
父はその場で固まり続け、私はガス台のスイッチをそっと消した。
「信じられない」
こめかみに青筋を立てた父がぶつぶつと文句を言う。私はそれを苦い気持ちで見つめる。
あれが気軽な挨拶で、よく交わされるものだなんて、父には到底考えられないという。
私も、今はそう思う。