熱い
「余計なことを考えるな」口数の少ない水柱がぽつりとそう放ち、口の中が苦くなるような錯覚を覚えた。肩で息をしながら「はい」と答えるのが精一杯の私は、少しは成長したと思っていたの乙の階級など、柱には遠く及ばないものなのだと実感する。
空気は冷えているのに、いや、冷えているからこそ。鼓動高まる我が身の昂りが、痛い。
水柱が柱稽古を開始した。隊士たちの多くは、「開始した」というその事実自体を知らない。一介の隊士でしかない私だって、何故そうなったのか、詳しい経緯を知っている訳ではない。しかし、柱稽古の開始当初に水柱は不在であった。それを知る一員に自分は属している。
何故ならば、私は長らく水柱の任務に帯同してきたからだ。
岩柱のもはや突破させる気がないのではと思わせる稽古を乗り越えたのは、この瞬間を迎えるためと言っても過言ではない。つまり、水柱に稽古をつけてもらう、そのため。
今までどれだけ請うても、熱心に頼んでも、あるいはあえての無言で主張しても、眉ひとつ動かさなかった。あの水柱が、直接、稽古をつけてくださる。そんな機会があるのならば、逃すわけにはいかない。
それに――――。
胸中をよぎる澄んだとは言い難い感情を反芻して、ぐっと息をのむ。
――誰にも、先を越されたくない。
念願叶って水柱は目の前だ。
今まで背中しか見てこなかったから、正面に捉える一縷の隙もない立ち姿にどきりとする。これまで水柱に相対した鬼も、このような気持ちになったのだろうか。どうにか突破口となるような一撃を繰り出さねばと、穿って臨む水柱が、自分の知る人とは別人のような気がして動揺を覚える。
水柱は、霧のような人だった。
誰も彼をはっきりとした実像で捉えることができない。彼自身が存在を強く主張することもない。確かに在るはずなのに、一歩近寄れば見えなくなってしまう。
私はその儚さと心もとなさを、心地良く感じていた。
家族を、仲間を失い、褪せた現実を生きねばならない地獄の中で、勝手な共鳴を覚えてきた。
水柱が柱稽古に参加しないと聞いた時も、二人で警備地区を巡回している間も、どこか安堵していた。日々近くにいる自分が、一番の理解者になっているかのような錯覚をして。
それなのに、今の水柱はまるで別人だ。いつもと変わることのない、青みがかった黒髪の跳ねる様、厳しい視線の奥、きりりと閉じた唇の端に、そこはかとない命の光が見えるような気がする。
どうしてそれが、こんなにも自分を不安な気持ちにさせるのか。分からないまま、先ほどから木刀を何度も構え直している。
判断が揺らいだまま闇雲に一歩を踏み込む。
直後、背中に当てられた木刀と強い気配に、私はその場で立ちすくむことになる。逃げられない。追い詰めることもできない。……情けない。
「何故不用に距離を詰めた」
「あ……、つい」
「つい、で命を落とすな」
命を落とすな。圧倒的な才でその可能性は低いながら、いつ消えてしまうか分からなかった水柱からそんな言葉が出てくるなんて。心の奥底で動揺が重なる。はい、と答える声が小さくなる。
どこか得体の知れない変化を漂わせている水柱からの、射抜くような視線を感じる。
「普段の通りでいい」
木刀がおろされる気配がした後、水柱は私の腕を軽く握った。そして、丁寧に押し出すようにして、正しい位置へと誘導していく。その僅かな間に、水柱の体温がぬくもりの形を作って腕に痕を残す。背後から急に触れられた上、耳元で感じた低い声に、否応なく鼓動が速まったのが分かる。
それから水柱は、まるで変化しているのは私だと言わんばかりに口を開いた。
「……何かあったのか」
今、それどころではないというのに。触れられた部分が溶け落ちてしまいそうだというのに。強烈な温度を感じながら、抗えず私は振り向く。
ばちりとぶつかる視線の先。そこにあるのは、海の底を映した瞳。そうだと思っていたのに、今は意思が宿って見える。見えるから困る。だから私は、こんなにも混乱している。時が来れば、今度こそ死んでしまうかもしれない。それなのに、生きたいと願ってしまう。どうしたらいいの、冨岡さん。
冨岡さん。そう呼んでみたかった。私が敬愛してきた水柱。
あつい。
むせ返るほどの暑さは、身体を動かした結果なだけ。
厚い信頼を得ている気がするのは、思い上がりなだけ。
あつい。
この衝動につける名は、多分、分からないままの方がいい。
決戦を前に、揺れることは許されない。これ以上、心を寄せようとしては駄目。
なのにどうして。こんなにも、今。