二人だけの家族団欒
 二人ともすっかり箸が止まり、汁椀の中では水と分離した味噌が丸く縮こまっている。

「翌日に祝言を控えていたのに」

 義勇の脳裏に姉の顔が浮かび上がる。

 蔦子は自慢の姉だった。朗らかで、誰からも愛された人。真に優しく勇敢だった。
 着物を用意して、頬を染めながら、来るはずだった明日をあんなに楽しみにしていたのに。
 二人きりで寝るのはこれが最後かもしれないと、寂しいような気持ちで床についたのに。姉さん、姉さん。

「必ずこの手で鬼を斬ると誓って選別を受けたはずだった。しかし……今度は、友を亡くした」

 なまえは息をのんで義勇を見守る。かつて鱗滝から聞いたことのある話だ。しかし当人の漏らすそれは、他者から伝え聞くのとは全く異なる苦悩が織り混ざっている。
 表情はさして変わらないのに、ぽつりぽつりと語る義勇がひどく悲しそうに見えて、なまえは彼から目を離すことができなかった。

「覚悟が足りなかった。俺が怪我などしなければ、何にも怯まず戦う覚悟があったなら、あいつは死ななかった。俺のせいで死なせた。選別も運良く生き残っただけで、突破したとは到底言えない」

 義勇はこの瞬間、歪んだ自分の全てを彼女に吐き出したくなっていた。失望されそうなことさえ、口にしたかった。それで傷つく必要があるならば、甘んじて受け入れなければならない。平穏な時間を享受することなど許されない人間なのだという確信が、心の内に根を張っている。
 鈍くて重い罪悪感は義勇を強く捕らえ、決して放してはくれない。しかし本当のところ、義勇自身が何よりも、それを強く、固く、握りしめ続けていた。

「……自分を、不甲斐なく思う」

 重い沈黙が訪れ、二人の間を満たしていく。

 なまえは否定も肯定もせず、ただ義勇の話に心を寄せ聞いていた。
 何が言えるだろうか。どれだけの苦しみがそこにあっただろうか。思い馳せて、彼女の胸はぎゅっと締めつけられる。

 薄暗い感情を発露させた義勇は、沈黙の最中、自身が彼女に何を行ったかを自覚していた。”試した”のだと。
 すべてを話して、それでいて、決して励まされたりなどしたくなかった。腕前を褒められようが、実績を認められようが、空虚な気持ちになるばかりなのだ。あの日に戻ることができない以上、何も要らなかった。誰からも、何も言われたくなかった。今日までずっと。

 なおも続いた沈黙に、義勇は肩の力が抜けていくような、ささやかな安堵を覚える。
 自身を蝕む途方のない否定感。しかし確かに根付いているその感情を、「そんなことはない」と否定しないでくれたなまえに、彼は心から感謝した。
 
「この悔いが消えることはないと思う。……が、炭治郎に目を覚まされた」
「……?」

 義勇の耳に、炭治郎の温和な声が蘇る。
 遠慮がちで、それでもなお使命を失わない彼らしい問いかけ。長らく思い出さないようにしていたこと。直視せずにいたこと。

 姉がどのような想いで自分を庇ったか。
 錆兎が何を志してあの場で刀を振るったのか。

 勇敢な二人のようにありたい。救われたこの命には、彼らの想いが宿されているのだ。
 そう思えば、自分の身体のなんと尊いことだろう。事実を認める鮮烈な痛みと共に、揺るぎない力となって我が身が支えられているようにも感じる。

 それに、自分の肩には悲劇に見舞われた多くの人の想いものっているのだ。
 失った家族を思い続け、鬼殺隊に役立ちたいと願うなまえ。隠たち。市中の人々。

「託されたものを、繋いでいこうと思う」

 義勇がぽつりと呟く。その口調はあらゆる波を感じさせず、ただ凪いでいた。
 悲壮も、重々しい覚悟も感じさせず、義勇はただ揺るぎなくその使命を自覚しているように見える。

 どれだけ水柱が苦しみ抜いたか……。
 なまえはこれまで、悪夢にうなされ、鍛錬を怠らず、何かに恵まれるのを拒み続けてきた彼の姿を痛いほど見てきた。彼女が瞬きをすると、堪えきれず涙が頬に落ちた。

「……姉上様も、錆兎様も、そう望んでおられると思います」

 なまえは強く同意する。本心だった。口を滑らせていることにも気がついていなかった。

 彼女の声が錆兎の名を紡ぎ、義勇は静かに勘付いた。

 ――知っていたのか。

 彼女が定期的に狭霧山を訪れているのは把握している。鱗滝が事の詳細を漏らすとは思えないが、何かの機会に話したのかもしれない。義勇はそのように理解した。
 今となっては不都合があるわけではないが、絶妙なばつの悪さがあるのは否めない。彼女がいつから錆兎のことを知っていたのか、義勇は咄嗟に過去を振り返る。

 思えばかつて、彼女にひとつ心境を変えられたことがあった。
 先ほども思い返した、杏寿郎と三人で食事をした日の帰り道――。

 ――そうか。

 義勇は改まった意識のもと、俯いた自分が多くのことを見過ごしてきた事実をはっきりと自覚する。遠慮がちななまえが珍しく言葉を重ねたので、あの時のことは印象に残っている。

 “義勇様が柱でなくとも、私がお役に立ちたいと思う気持ちに変わりはございません”

 “義勇様が柱でなくとも、義勇様でなく炭治郎であっても、私は、同じことをいたします”

 何を食べたいか聞かれた時だった。口を閉ざした自分に、この世に居場所を持つことを許せぬ自分に、彼女は熱心に語りかけていたのだ。
 なまえが義勇を敬うのは、あくまで鬼を滅する目的の為だ。そう言っていた。もちろんそれは、事実の一部ではあるだろう。
 しかし今なら分かるような気がした。彼女があの時、その言葉を繰り返した訳が。

 あれからどれだけの月日があっただろうか。義勇は思い馳せる。
 色のない景色を歩む日々は山ほどあった。その間も、なまえは何を言うこともなく、何も感じさせず、黙ってこの屋敷で待っていたのだ。
 昨日までの日々ですらそうだ、と義勇は思う。炭治郎の足を気遣い、賑やかな団欒を夢に見ながら、明け方にそっと提案に現れ、時には炭治郎をさりげなく引き止め、彼女はひたむきに、水柱を支えるべく立ち回っていたのだ。

 数日の間に何度となく垣間見た彼女の苦悶の表情の意味が、義勇にはやっと真に理解できた。

 今日、この瞬間まで、そのことを感じさせずに支えてくれていたことへの感謝。義勇は情けないような気持ちとともに、確かに存在していた大きな温かさに気がつき、救われたような心地になる。

 義勇は顔を上げ、彼女を見た。
 視線の先では、なまえが声を出さないまま大粒の涙をこぼしていた。

「……、なまえ、どうし……」

 どうしたもこうしたもなく、義勇の独白の結果であることは明らかだ。しかしあまりに憚らず、子どものように涙を流すなまえを見て、義勇は思わず問いかけてしまった。

「す、すみません、義勇様のお話に、感じ入っておりました」

 誤魔化そうとして必死に言葉を繕うものの、彼女の目からは次から次に涙が溢れ、本人もどうしたら良いのか分からないほどだ。
 両の手で目元を拭ううちに収拾がつかなくなり、なまえは顔を覆って必死に泣き止もうとする。

「も、申し訳、ありません、お食事の邪魔になりますので、私は一旦……」

 恥じ入ったなまえは一度大きく頭を下げ、退室を申し出る。目元を隠すように手を添えたまま、彼女は畳を探るようにもう片方の手をつく。
 その手首を、咄嗟に身を乗り出した義勇の右手が掴んでいた。

「……っ?」

 なまえが驚いて顔を上げる。涙に濡れた下睫毛がいくつかの束になって、色濃い感情を主張している。

「……邪魔じゃない」

 義勇はなまえの濡れた瞳を見つめながらどこか必死な気持ちで付け加えていた。
 涙を堪えようとぎゅっと結んでいた彼女の唇が次第に震えだし、義勇はおずおずと手を離す。再び両手で顔を隠したなまえは申し訳なさそうに座りなおし、子どもかと錯覚するほど身を縮め、背を丸くした。

 さめざめと泣くなまえを前にどうしたら良いのか戸惑いながらも、水柱はただ、彼女が落ち着くのを待った。

 その間、彼女の下げた頭、つむじの辺りをぼんやりと眺めながら、義勇はなんとも形容し難い不思議な安堵を覚えていた。

 炭治郎と別れてから、何となく気が逸っていたらしい。
 気がつけばするすると、思いの丈をなまえに打ち明けていた。聞いて欲しかったのかもしれないし、彼女になら話せると感じたのかもしれない。
 そしてその判断は、正しかった。

 義勇は肩を揺らすなまえをまじまじと見つめる。

 涙を枯らした自分の代わりに彼女が泣いてくれて、胸につかえた感情がまた少し、すっと軽くなる気がした。

 義勇は話を聞いてくれたのが彼女で良かったと、しみじみそう思ったのだった。

二人だけの家族団欒

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