炭治郎、来たる。
 なまえは義勇が休息を取る座敷の前に正座し、自身の胸に手を当てた。
 この度どうしても提案したいことがあり、隙を見つけやってきたのだ。現在は早朝五時。遠くに朝陽が射し始めたものの、まだ暗さの名残ある時間。義勇は先ほど帰ったばかりで、炭治郎はまだ来ていない。
 ばくばくと鳴る心臓の音、その鼓動が手のひらに容易に伝わってくる。彼女は意を決して口を開いた。

「あの……」
「帰れ」

 廊下から呼びかけたなまえは、障子の向こうからぴしゃりと返され、心臓が止まるかと思うほどびっくりした。水柱の勢いに驚いただけでなく、いつになく冷たい口調にずんと胸の内が重くなる。かつてこの屋敷へ来たばかりの頃、悪夢にうなされた義勇を起こした時のことが彼女の中で想起された。

 義勇のことも炭治郎のことも気にかける日が続き、なまえも疲弊していた。
 揺れ続けた胸の内に、きつい言葉は大いに堪える。今までにないほどの突き放した語調に、なまえは鼻の奥がつんと痛むのを感じた。泣き出しそうな顔で彼女がその場から立ちあがろうとした時、不意に障子が開かれた。

「義勇様、お疲れのところ申し訳ありま……」

 なまえが恐縮しきった顔で見上げると、そこには珍しく焦った顔をした義勇がいた。

「炭治郎かと……すまない」

 どうやら義勇は、なまえを炭治郎と誤解していたようだった。昨日のことがあった後で、無理もない。廊下の周囲を素早く見回した義勇は、なまえに座敷の中へ入るよう促した。



「お戻りになったばかりのところ、申し訳ございません」
「いや、俺の方こそ……」

 なまえが深く頭を下げるのを見て、義勇が弁解する。だがその語尾はもごもごと曖昧なものになった。

 明け方の室内は冷え、しんとした空気だけが漂う。衣擦れの音の中顔を上げたなまえは、恐る恐る切り出した。

「炭治郎、本日も来るでしょうか」
「……知らない」

 どこか遠い目をしてうんざりしたように答えた義勇は、隊服の黒で覆われた姿で彼女の前に腰を下ろす。彼の背後には、見慣れた羽織が掛けられている。たった一枚の布の有無の差で、水柱は別人のように感じられた。

 なまえは気まずいながらも、本題に触れねばと続きを紡ぐ。

「お……折り入って、ご相談がございます」

 義勇は返事をしないものの、相槌がわりに彼女を捉える。話を聞く姿勢だ。
 なまえの鼓動が一段と高まる。改めてじっと見つめると、目の前の静かな迫力に息をのんでしまう。薄暗い座敷の中に二人きり。思えば義勇の方から簡単な言伝や指示を受けることはあっても、こちらから何かを相談することなど滅多になかった。用件を聞こうとこちらに視線を向ける義勇と真正面から向き合うと、普段見えないものが見えてくる。

 かねてから美形であるとは思っていたが、近くで見ると印象の異なる人だ。精悍な顔つき、深い海の底を覗かせる藍色の瞳、閉じた唇が感じさせる覚悟と儚さ。ごつごつとした指先の印象とは違う陶器のように清らかな頬は、気高さとも無垢ともとれる美しさがある。
 それらのことが急激に意識されややたじろいだものの、なまえは今伝えるべきことに集中して、口を開いた。

「炭治郎、連日動き回っていて足の治りが心配です」
「勝手に動き回っている本人の責任だろう」
「はい……で、ですが、藤の花の家紋の家までの距離を毎日往復している分だけでも、なくしてあげられたらと思いまして」
「……」

 義勇は視線を横にずらし、わずかに眉を顰めた。警戒している。炭治郎を屋敷に泊めてやって欲しいと、その方向に話が進んでいることを感じ取っている。しかしそれが受け入れ難い提案であることは、なまえにも分かっていた。

「放っておけ」
「義勇様のご指示は、お、仰る通りです。しかし……」

 なまえとて板挟みなのだ。いつになく言葉を振り絞る彼女の様子に、義勇は目を留める。

「本調子でない炭治郎を連日返すのは、胸が痛みます。いつ鬼に遭遇するか分からないことを思うと、かっ……回復は万全であった方が良いのではと思うのです」
「……」

 義勇は何も答えない。その点についての彼女の指摘は最もである。

「そ、それで義勇様にお許しをいただきたいのですが……」

 義勇は返答を思案しながら身構えた。話の流れから、屋敷に炭治郎を泊めさせても良いかと聞かれることは想像に容易かった。
 しかし悩み抜いたなまえの方も、義勇の警戒は見据えていた。これだけ炭治郎を避けている義勇がそう簡単に受け入れるはずがないことは重々承知している。勝手に訪ねてきたのだから、泊めてやる義理などないのだ。
 かといって炭治郎の足を放っておいて良いのか。柱の立場から見ても、鬼殺隊の利益を考えても、感情的になって見過ごして良い問題ではないはずだ。なまえはずっと、それに対する折衷案を考えていた。

「炭治郎を泊めるという話なら無理だ」

 話を読み、先手を打った義勇に、なまえは食い下がった。

「その、女中部屋ではいかがでしょう……!?」
「じょ……、」
「私一人では持て余すほどの広さがございます。炭治郎の身の回りのことも、全て私が行い、義勇様のお勤めには支障が出ぬよう致します」
「……」

 なまえがあまりに真剣に言うものだから、義勇は一瞬自分の疑問の方がおかしいのかと錯覚しかけた。

 一つ屋根の下、それも同じ部屋に年若い男女が二人……。
 それはまずいのではないだろうか。

 義勇の頭の中で目まぐるしく思案が蠢く。あの炭治郎が変な気を起こすとは思えない。当然彼女もそう思っているだろう。自分の反応は過剰なのか。しかしやはり広いとはいえ同じ部屋の中。夜が深まれば思いもがけないことが起こらないとも言い切れない。――健全ではない。

「……駄目だ」
「……」

 今度はなまえの方が言葉を失った。
 女中部屋への宿泊が却下されたら、彼女の立場で提案できることは他に何もない。

 義勇と炭治郎の板挟みになり、両者の気持ちを慮ってきたなまえが困惑して瞳を揺らす。静かにしている鬼がいつ猛攻をしかけてくるか分からない今、炭治郎の身体を十分に休ませてやれない事実が、弟を想う姉のような気持ちとなってなまえの心に重くのしかかる。

 押し黙って目を潤ませたなまえの姿は懇願しているようにも見えて、義勇はばつが悪くなった。
 自分が意地になっていることは分かっている。どうあれ炭治郎の説得に応じる気はない、もとより応じられる立場でもない。しかし足の具合についてはなまえの指摘通りだ。

 そして同時に、彼女が参っている様子を見せたことにも義勇は面食らった。言葉足らずと揶揄される自分の指示にも怪訝な顔をすることなく素直に応じてきたなまえだ。彼女が表立って意見を言うことなど、これまでにほとんどなかった。

 ……柱稽古の話をしていなかったのも、余計に彼女を混乱させたのかもしれない。

 そう一度頭に過ぎると、目の前のなまえにこのような顔をさせているのは他でもない自分なのではないかと思えてくる。
 炭治郎のことは、振り払っても平気でいられた。厠までついてくる奴を振り払うのなど当然だ。
 しかしなまえとなると違った難しさがある。今まで多分に世話をしてもらい、顔を何度も合わせてきた。今、狼狽している彼女の願いを聞き入れなかったとしても日々は続く。炭治郎の回復という根本の問題が解決しない以上、そして炭治郎が水柱邸を訪れ続ける以上、なまえに普段の明るさが戻ることはないのではないか。そうさせているのは、自分なのだろうか。

 義勇は瞼を閉じ、深く長いため息をついた。それから、仕方なく口を開いた。

「空いている部屋を使っていい」

 途端、なまえの視線が義勇に寄せられる。
 きらきらと輝く瞳で見つめられ、信頼するような目で見ないで欲しい、と義勇は恐縮した。

 ……判断を誤ってはいないだろうか。

 義勇の脳裏に別の懸念が過ったものの、深く考えるのはやめた。続けざまに炭治郎に付き纏われて、彼は心底疲れていた。

炭治郎、来たる。

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