炭治郎、来たる。
「……んくださーい」「ごめんくださーい」
「こんにちはー」
明るく澄み渡った声が響く。来訪者による挨拶が聞こえた気がして、奥の廊下を磨いていたなまえは顔を上げた。
よく晴れた心地のいい昼下がり。
水柱邸を訪れる人物としてなまえが思い浮かべたのは二通りだ。隊服を届けに来る隠と、鬼殺隊本部からの関係者や隊士。
通常、水柱邸には隊服や用件を伝えに来る隠くらいしか訪れない。しかしこのほど、なまえが鬼殺隊本部の関係者や隊士を思い浮かべたのには理由があった。
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手伝いにくる隠から聞いたところによると、先日、炭治郎が霞柱や恋柱とともに上弦の鬼を討伐したらしい。その上、禰󠄀豆子が太陽を克服したという。
なまえが以前炭治郎に会ったのは、上弦の参と炎柱がまみえたすぐ後のことだった。
それからほどなくして、音柱、そして蝶屋敷で出会った頼もしい仲間の隊士たちとともに、上弦の陸を倒したという話を聞いた。百年以上成されなかった上弦の鬼の撃破で、一時話題は持ちきりであった。
それがこの度もまた上弦の鬼を二体も討伐し、さらに禰豆子の体質が大きく変化するという信じがたい出来事が重なるとは。
これら話題は鬼殺隊の中で瞬く間に拡散され、隊士達の士気を大きく高めていた。
三体も上弦の鬼が葬られた訳だが、鬼殺隊の長い歴史において、上弦の鬼は倒すどころか遭遇することすら機会の限られる貴重なことだそうだ。禰󠄀豆子の変化も含め、お館様が鬼舞辻無惨の動きに変化が出るのではと予測していることを、手伝いに来た隠は興奮しながらなまえに語った。
なまえは炭治郎と禰󠄀豆子の無事を感じ取れたことに安堵しつつ、大きな戦いがすぐそこへ迫ってきているような気もして、胸騒ぎがするような落ち着かない日々を過ごしていた。
加えて、彼女の日々を困惑させている原因がもうひとつあった。
水柱がこのほど、日中、常に屋敷にいるようになったことだ。
夜間の警備には出ていくものの、頻繁にあった羽織や隊服の汚れ、ところどころ血を浴びているといった戦闘の跡は見られない。鬼の出没がピタリと止んだという噂は本当のようだった。
この件の問題は昼間だ。食事と訓練・必要最低限の休息を取れば、任務や情報収集で不在にすることも多かった義勇が、今は常に屋敷に滞在している。
いつも一人で寂しく過ごしていたなまえにとって、人の、それも頼りになる水柱の気配が屋敷にあることは心強いものであった。しかし、彼の言葉数は極端に少なく、表情も普段以上に固い。いつも以上に厳しい鍛錬を重ねつつ、時折道場に座り込み一人で物思いにふけっているようでもある。
柱稽古なるものが始まったと、隠達が言っていた。
隊士達がそれぞれの柱の元へ出向き、訓練を受けるという。隊士・柱双方に機能向上を見込める試みであると聞き、なまえもなるほどと頷いたものだった。
それでは水柱邸にも、義勇の指南を求めて今に隊士が訪れるのではないか。
そう考えたなまえは一人、食材を多く用意したり、寝具を干しておいたりと準備を進めているのだが、その気配は一向になかった。加えて、義勇のあの様子だ。水柱の憂いのかけらを知るなまえは、水柱邸を取り巻く状況を測りかねて、困惑した日々を過ごしていた。
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そんなこともあって、来訪者の声を聞いたなまえは、その声の主を、なんとなく鬼殺隊関係者や隊士ではないかと期待したのだ。
「はい、ただいま参ります」と声をかけて、たすきを解く。義勇のいる道場の横は気まずいので、なまえは縁側から庭へ降り、外を大回りするようにして玄関へ向かった。
しかし彼女が玄関へ着いてみると、これといって人の気配は感じられなかった。
念のため門の方まで、それから竹林の路の方まで眺めに行ったが、それでも人気はない。
自分の対応が遅くて、訪れた隊士様が帰ってしまわれたのではないか。
水柱邸に柱稽古の気配が訪れないことを心配していたなまえは、ぐるぐると思い悩みながら、ひとまずは元来た庭を通って奥の廊下まで戻った。再びたすきをかけようと手に取り、頭を上げたその時だ。廊下の向こうから水柱が顔を出した。
なまえが来客の対応に遅れてしまったことを詫びようと覚悟した直後だった。彼女は水柱の背後にいる「来訪者」を目にした。
「義勇さん、どうしましたか! 義勇さん!」
澄んだ眼で水柱の背を見つめているのは、他でもない炭治郎だった。
「炭治郎!!」
なまえは思わず歓喜の声を漏らす。
「なまえさんっ! ご無沙汰しています!」
なまえの存在に気がついた炭治郎が一段と明るい調子で声を出す。
なまえは炭治郎に駆け寄った。久しぶりの再会である。元気な彼の顔を見て、なまえは色々と話したい衝動に駆られた。
しかし炭治郎の前に立つ義勇の様子に、彼女はその口を噤んだ。屋敷の主人の表情は固く、この上なく迷惑そうにしている。怒っているような、困っているような、やや感情の色を含ませている水柱をなまえは初めて見た。
炭治郎と話したくてもじもじしているなまえに気付いたのか偶然か、まもなく義勇は「仮眠を取る」と踵を返したのだった。