美味なるもの
鍋蓋を持ち上げたなまえは、立ち上る湯気とその香りにほっと一息ついた。今が美味しい季節だと、振り売りの行商人の熱心な勧めで手にした鮭。どう調理すれば良いものやら、少しばかり頭を悩ませたのだ。
いくら旬とは言え火を通さないのは些か心配だ。焼いてもいいが先日も焼き魚を出したばかりである。それで、ちょうど手元にあった大根と煮込むことにしたのだ。煮れば味が染みて大抵美味しくなるだろうという安直なひらめきではあったが、鍋から立ち上る白い湯気は、彼女の思い付きの成功を匂わせていた。
――ところが、である。
「なまえ」
台所で音を立てずに片付けを進めていたなまえは、背後から突然、水柱に声を掛けられた。なまえが振り向くと、柱に半身隠すように棒立ちした義勇がこちらをじっと見つめているではないか。
「はい」
「聞きたいことがある。来てくれ」
義勇はそう告げるとすぐに障子を抜け、座敷へと戻ってしまった。まだ、食事を出して間もない。鮭と大根を思い付きで組み合わせたことを咎められるかもしれないと、いやな予感に後悔しつつ、なまえは急ぎ座敷へ向かった。
■
箱膳の前に座っている義勇は、視線を落として器をじっと見つめていた。その斜め前に正座したなまえは、緊張を隠し背筋をぴんと伸ばす。
しかし、その緊張もすぐに解けることとなった。
「この、」
義勇は鮭と大根煮の入った器に手を添える。
「これを持ち歩くのは難しいだろうか」
予想だにしなかった義勇の言葉。なまえは意図を測りかねてぱちぱちと瞬きをした。
少なくとも怒られている訳ではないらしいと気が付いたなまえは、煮物の持ち運びについて思案する。
「そう……ですね。汁気が多いので持ち運びには適さぬように思われますが……」
器の中を覗きながら煮汁を見て、なまえが答える。
義勇はほんの少し間を開け、「……そうか」と小さく呟いた。
義勇はそれから、自分を納得させるようかすかに数度頷き、再び箸を手に取った。
水柱の悪い癖だが、彼はなかなか言葉が足りない。
おかげで、もう用は済んだのか、この場を去っても良いものか、なまえは戸惑いながら主人の食事する様子を眺める羽目になった。
黙々と箸を進める義勇。
その場に留まるなまえ。
なまえは場に流れる妙な空気感に大いに苛まれた。しかし途中、彼女は思いがけずとても良い瞬間を得た。
「美味い」
鮭の乗った大根を口に運んだ義勇が、しみじみ一言そう漏らしたのだ。
困惑していたなまえはそこでやっと、義勇がこの煮つけを好んでいると確信が持てた。
「お、お気に召していただけましたでしょうか」
聞けば、義勇がこくりと頷く。
「持ち歩きには不向きですが……、まだ残ってございます。もっとお持ちしますか?」
持ち歩きたいほど気に入ったのだと分かれば作り手としては嬉しくなるものだ。提案してみると、義勇の目に些かの高揚が滲んでいるように見える。
「頼む」
主人の返事に、なまえは喜んで台所へ舞い戻ったのだった。