靄
闇は恐ろしいが、霧ならば大した問題ではない。そう思っていたことを訂正せねばならないと、なまえは一人考えながら足を進めていた。
通い慣れたつもりではあったが、子どもの頃から慣れ親しんだ土地という訳ではない。
狭霧山の下山道は何度かしか通っていない事実を改めて思い返しながら、なまえはそわそわと急ぎ足になる。
下山途中、道の真ん中に力なく倒れていた野兎の子どもを見つけたなまえは、そう遠くないところに巣穴があるはずと少しだけ脇道に入った。案じることもなく巣穴はすぐに見つかり、いつも通りの道を戻ったつもりだった。ところが、その後からどうも様子がおかしい。麓付近に差し掛かったはずなのにいつまでも山から出られない。同じところをぐるぐる彷徨っていることに気が付いたなまえは一抹の不安を覚えた。
まだ昼間で、木々の隙間からは日の光が入る。そう思って安心していたが、山の天気は変わりやすい。じわじわと靄がかかり出し、道の先を見渡しづらくなった。闇に比べれば大した問題ではない、と息巻いていた少し前の自分を愚かだったと反省しながら、誰か通りがかりの人はいないだろうかとなまえは周囲を見回した。
鬼は、出ないはずである。
靄はかかって視界は悪いが、空は晴れている。しかし陽光がしっかり届いているかというと、正直なところそうとは言い切れない。
状況を理解するほどなまえの心拍数が上がっていく。家族を失った時のことを思い出さぬように。鱗滝に教わったことをよく思い出して。なるべく明るく、日の光が差す場所を選んで。そうしていくうちに、より迷ってしまっても、陽光の存在だけを頼りになまえは道を進んだ。
急にがさがさと物音がして、なまえは思わず「きゃあっ」と悲鳴を上げた。見れば狸である。なまえは狸でいいから一緒に行きたいと願ったものの、それも虚しくすぐに逃げられてしまった。
今まで一度もこんなことはなかったのに、何かに化かされているような気味の悪さ、心細さが彼女の心をひんやりと覆うようだ。
段々と曇りに傾いてきた空模様に、山中の日陰が増えていく。このまま日の射す場所がなくなったらと思うと、なまえは脳裏に鬼の存在がちらついてゾッとし、思わず腕をさすった。
こんな時、自分にも鬼を斬ることができたなら。せめて今、鬼狩り様が近くにいてくれたなら。
なまえがそう思った時だった。
願いが叶ったのか、見慣れた金色と緑……亀甲柄の羽織が木々の隙間を素早く通り抜けるのが見えた気がした。
「……義勇様?」
なまえは一目散に、羽織の影が見えた方向へ走った。陽光の射さない場所では、もはや鬼狩りの存在だけが頼りである。
「義勇様!」
呼びかけに気が付いていないのか義勇の動きは速く、なまえの目視でははっきりと捉えることができない。木々の合間に僅かに認知できる金色と緑を追いかけ、なまえは息も絶え絶えになりながら走った。
「……あれ?」
突然、視界が開けいつもの田舎道に出たなまえは上がった息を整えながらきょろきょろと周りを見回した。どうやら必死に追いかけているうちに無事山を抜けることができたらしい。しかし水柱の姿はどこにも見当たらなかった。
まだ山中にいるのだろうかと思ったなまえが振り向き、一歩足を戻したところだった。
「戻ったらだめだよ」
耳元ではっきりと女の子の声が聞こえ、なまえは慌てて元の方向へ振り返った。
目視した田舎道は左右を田畑に覆われ、ひょろりと一本長く続いている。そのどこにも人影はない。心臓がまた、どくどくと音を立てている。
今まで見たことのない山の一面を垣間見た気がして、なまえはぎゅっと着物の胸元を握りしめた。この無性に不安な気持ちはどこから来るのか。
鱗滝の様子、炭治郎の雰囲気、暗示の中眠る禰豆子。
大きな変化の時を迎えている狭霧山を背に、なまえは帰路を急いだのだった。