器屋騒動の朝
 商店街はいつ訪れても活気に満ちている。行き交う人々の絶え間ない足音、客を呼び込む為に張り上げた声、店先で会話する客と主人。
 退屈を持て余し走り回る子どもをすんでのところで避け、なまえは街の賑わいの中を歩いていた。

「うるせえ! お前には関係ねえだろ! 出ていけ!!」

 荒い言葉使いのきつい物言いが聞こえてきたのは、ちょうどその最中であった。

 周囲の人々と同じく、つられるようにして声の方を向いたなまえは、とある店の中にその主がいるらしいことに気が付く。声のすぐあと、何やらがちゃがちゃと物の動く音がして、店の軒先に茶碗や箸が飛び出してくる。食器を扱う店の中で、喧嘩が起こったようだ。

 物騒なことに巻き込まれぬよう、そうっと人だかりの後ろ側を通り過ぎようとしたなまえは、ちらりと覗いた店内によく知る片身替わりの羽織を見かけ思わず足を止めた。

 何事かと集う人の波を縫ってなまえが軒先の先頭まで足を進めると、やはり店主に凄まれているのは義勇であった。
 大柄の店主は赤らめた顔で憤慨しており、状況を作り出しているのは大きな怒りだけでなく片手に持った酒瓶の影響とも思われる。ひっくひっくと時折しゃくりながら、眼前の義勇を睨みつけている。

「面倒見のいい奥さんだったからねえ」
「何だって突然姿を消しちまったんだろうねぇ」

 なまえの横で見物していた近所の人らしき女性が二人、ひそひそと話している。
 聞こえてくる噂話の輪郭に、突然姿を消したのが目の前で鼻息荒く怒っている器屋の店主の妻であれば、鬼の出没を疑って水柱が偵察に来たのだろうか、となまえは推察した。

 その間も店主は汁椀やら箸置きやら、手元にあるものを片っ端から義勇へ投げつけている。義勇はそれを避けるでもなく、一身に受けて立ち尽くしていた。

「義勇様……」

 声を掛けて良いものかためらったなまえの口から、小さな声が漏れる。その声に義勇がちら、と振り向きかけた時だった。手元に何もなくなった店主が、酒の入った徳利を義勇めがけて投げつけた。

「義勇様あぶなっ……」

 なまえは咄嗟に、手を差し出しながら飛び出した。徳利がなまえの腕に当たって地面に落ち、派手な音を立てて割れる。

 顔に少しばかり酒がかかったものの、そんなことよりなまえには気にかかることがあった。羽織だ。なまえは咄嗟に、これを守らなければと思ったのだ。

「義勇様、ご、ご無事でしょうか……!」
「取り乱すな、騒ぎが大きくなる」

 平静を保ったままの義勇が静かに指示し、なまえは慌ててそれに従った。深い海の底を映したような義勇の瞳は、粗暴な態度を取る店主にも、急に飛び出したなまえにも動じる様子はなく、ただその場で何を言うでもなく前を見据えていた。
 
 二人がその場で大人しくしているうち、次第に見物人たちの中から「娘さんに徳利投げるなんて」「濡れてるよ、可哀相に」といった声が上がりだした。ばつの悪くなった店主は「二度と来るな」と言い残し、店の奥へと姿を消してしまったのだった。

 騒動がひと落ち着きしたとなると人の散りは早い。先ほどまでの野次馬はあっという間に元いた場所へと足を戻し、店内には義勇となまえだけが取り残された。

「義勇様、羽織が……!」

 なまえはハンカチを取り出し、義勇の羽織の酒がかかった部分を急いで押さえつけた。白く美しいハンカチを惜しげもなく押し当てる様に、義勇は面食らった。戦いを重ねた羽織を押さえるハンカチには、酒の水分とともに汚れが染み出し、彼女の手元にある白い生地がじわじわと灰色にくすんでいく。

「構わん。ハンカチまで汚す必要はない」
「このハンカチなら洗うのも容易ですから構いません。羽織についた水分は早めに吸い取らねばシミになります」
「またすぐに汚れる」
「でも、大切になさっている羽織ですよね?」

 丁寧にハンカチを押し当てるなまえの後頭部を目にしながら、義勇ははっとした。何故そのことが彼女に分かるのか。義勇はこの羽織について、誰にも、何も、話したことなどなかった。

 なまえも、明確な理由を持ち合わせていた訳ではない。
 ただ、義勇のことを冷たい人と思っていた頃から、この羽織だけは丁重に扱っているように見えていた、それだけである。血しぶきがつくことも、汚れることも多々ある。しかしそれでも繰り返し手入れしてきたのか、薄いシミを幾重にも重ねながら、義勇の片身替わりの羽織は過酷な任務を重ねていることを感じさせない風合いであった。義勇が隊服を着替える際など、時折羽織に触れる機会のあったなまえは、酷使されながら大切にされているその質感が印象的に感じられ、よく覚えていた。

「大まかな水分は取れたので、これでひどいシミにはならないかと」

 一呼吸吐き出してなまえが義勇を見上げる。

「……助かった」

 義勇は目を合わせられないまま、不器用に礼を述べた。

器屋騒動の朝

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