狭霧山にて6
厳しい修業は早朝から始まるものである。翌日。陽が落ちる前に水柱邸へ戻るため、なまえは朝早く帰り支度の仕上げにかかったが、その時分には既に炭治郎は山下りへ出発していた。
少しでも鱗滝の助けになるよう帰る前に掃除と洗濯を済ませたなまえは、最後に一口、湧き水を啜りに外へ出た。清潔で冷たい狭霧山の湧き水は、顔を洗えばしゃきっとするし、一口啜ると身体の中のもやもやとしたものが流されていくような感覚になる。鱗滝の家で世話になっている間中、彼女はこのひとときに癒されていた。
再び始まる孤独な日々を前に、英気を養おうと思ったのだ。
なまえがしゃがもうとしたその時、山道を進む足音が聞こえた。振り向けば、最初の山下りを終えた炭治郎がやってきたところだった。
「お疲れ様! 喉をよく潤してね」
「はいっ! なまえさんは、もうお帰りになるんですか?」
「うん」
なまえが頷くと、炭治郎は困ったように眉を下げた。
「俺、こんな感じで大丈夫なのかって、本当に鬼を狩れるようになるだろうかと思うこともあって……。昨日はなまえさんと話せて少しすっきりしたから、何だか、名残惜しいです」
激動の時をまだ消化しきれない炭治郎は、遠慮するようにそう呟いた。
それに呼応するように、なまえも本心を打ち明ける。
「私も。女中のお仕事にまだ慣れなくて……一人で過ごす時間が長いから、昨日はいっぱいお話できてとっても楽しかった。救われたよ」
なまえの偽りのない言葉に、炭治郎の表情が和らぐ。
「ではお互いに、頑張りましょう!」
炭治郎はそう言って、綺麗に揃った歯を見せ太陽のように明るく微笑んでみせた。
顔も体も、心さえ傷だらけなはずなのに、屈託なく相手を励ますことのできる炭治郎になまえは心が震える。
まん丸の愛らしい瞳に気の抜けた表情をした、まだあどけない炭治郎。しかし昨夜、火に照らされた彼の表情は鈍く切なく、話が家族に及ぶとその瞳は悲しみの色で染まった。唯一生き残っている禰豆子を人間に戻すこと。その方法を考え一心に打ち込むことだけが、今、絶望の淵にいる炭治郎を生かしているのだと思われた。
「炭治郎ちゃ……」
言いかけて、なまえは止まった。
彼はなまえから見れば年下の可愛い男の子だが、鬼殺に向けて厳しい修業に耐えている人物である。口に出す機会のないうちに、心の中で「炭治郎ちゃん」「禰豆子ちゃん」と呼んでいたなまえだったが、子ども扱いするのは失礼であると思い至った。
「炭治郎くん」
言い直したなまえは、自身の恥を打ち明けるように話しかける。
「私、恥ずかしいことに鬼殺隊士になりたいと言っていたの。その身体では到底修業に耐えられぬと、鱗滝さんに稽古をつけてもらうこともできなかったけれど……。でもあなたは違う。こんなにも努力している」
なまえは自身の努力や辛抱が至らなかったのではという引け目を、素直な炭治郎を前に隠しきれなくなった。
炭治郎が言葉を失って、それに耳を傾ける。
「炭治郎くんの努力は、きっときっと実る。私は信じる。あなたの大切な、心から大切な禰豆子ちゃんが無事人間に戻れるよう、私も一緒に祈ります」
「なまえさん……」
炭治郎の瞳が少し潤み、きらめく。それから彼は眉をきりりと上げ、力強く応えた。
「はい! 俺、なまえさんの分まで、鬼を倒せるようになります。そして絶対に……禰豆子を元に戻します!!」
力強い言葉の後に「ありがとうございます」と礼が添えられる。それを聞いて、お礼を言いたいのはこちらの方だとなまえは思ったのだった。