1話
 見上げれば、視界を埋める桜色。

 桜など毎年目にしていたように思うのに、太く伸びた幹が枝分かれし方々に広がっていく様、絶妙な重なり方をする花弁の一枚一枚を、こんな風に気に留めるのはいつぶりであろうかと冨岡義勇は思った。

 季節は春の始まり。時折「油断召されるな」と吹く肌寒い風と、「もう大丈夫」と語り掛ける淡い心地よさが、交互に心身を揺らす頃。

 晴れて肩書きを下した冨岡義勇は、一人の青年として並木道を歩み進めていた。
 桜一つとっても、こうである。
 義勇は長いこと、鬼を滅することに心身を費やし続けてきた。最後の柱合会議を終え、屋敷に落ち着いた後、彼の心には幾許かの余裕のようなものが生じた。元々冷静な判断には長ける男である。

「今の自分は世間のことを何も知らない」

 次第に義勇の中で、そのような想いが募るようになった。
 姉を失ったあの日から、義勇の視界は「鬼のいる世」に蝕まれた。鬼のいない世になってみて改めて、見える景色、感じる事柄、全てのことが今までとは違って感じられた。
 桜一つとっても、こうなのだから。
 桜を見上げた義勇は、かつて昔、姉の蔦子と共によく花見の真似事をしたことを思い出した。近所の家の子どもも交えて、家の近くに立っていた桜の木の下で団子や握り飯を食べた。歌を歌ったり、踊ったりもしたように思う。そんな慎ましい出来事など、ついぞ思い出すこともなく胸の奥底にしまい込んでいた。

 義勇がまず町を知り、人を知り、学びを得ようとしたのは、それ故であった。だからこうして、今日も街まで本を探しに出ているところだったのだ。屋敷から三十分程歩き、隣町に差し掛かったところであった。

「……っ?」

 久しぶりに感じた急な気配に、義勇はさっと周囲への注意を払った。このような感覚が身体に走るのは久しぶりであったが、未だその反射を忘れるという程月日は経ていない。何か妙な感覚はするが、殺気や悪意は含まれていない、しかし常人の動きのそれとはやや異なる違和感があった。
 がさり、と草を分ける音がして目の前に娘が飛び出してきたのはその直後のことであった。

「…………なまえ……?」

「義……勇様……!!」

 長いこと他者への興味を失っていた義勇が咄嗟にこの奇妙な気配の娘の名を呼べたのは、このところ蘇る記憶の彼方に、彼女が存在していたからであった。
 姉が存命しており両親の残した家で暮らしていた頃、近所に同じ年頃の女の子どもがいた。両親のいない彼女は厳しい祖母に育てられており、躾の目を盗んではよく一緒に遊んだものだった。
 桜の下でけらけらと笑っていたのは、姉であったか彼女であったか。曖昧な記憶ではあったが、確かにそのような人物がいたのである。

 だが娘の反応がまた、重ねて奇妙であった。
 常人とは思えない気配を巡らせているし、たった今口走った通り義勇の名前を知っている。しかし改まった呼び名はかつてとは違うものであり、面識は確実にあるようだが果たして幼少期のそれと合致するのかは不明だ。
 際立っているのは、転ぶほどの勢いで飛び出してきたこと、ひどく息を切らし、小紋の裾は肌色が覗くほどにはだけ、彼女が見るからに慌てていることであった。

「おっ、追われていて……!」

 肩で息をしながら、それでも義勇を通り抜けようとする必死さに彼女が何かから本気で逃げようとしていることだけはよく伝わってきた。
 立ち上がりざま、彼女の手のひらに血が滲んでいるのが見えた。ふと耳を澄ますと、少し離れた場所から「なまえ、なまえ」と呼ぶ男の声が聞こえる。
 義勇はやはり目の前の娘は思った通りの人物であることを感じ取り、咄嗟に彼女の手を取った。

「身を隠せれば良いのか?」
「っはい」

 喉も苦し気に返事をした娘と義勇は、こうして連れ立ってその場を去ったのである。





 娘の足取りを考え全力とまではいかないが、それなりの速さで走ったのは隊に所属していた頃ぶりで、義勇は些か懐かしい感覚がした。
 それと同時に、ほのかな感心も芽生えていた。
 娘の身のこなしが、常人よりも滑らかに感じられたからだ。隊士のようにはいかないが、何か運動を得意としているのかもしれないと思われた。

 五分程そうして走り、二人は近くにある神社の境内へ進んだ。奥まったところにある石碑を背に、その手前の階段へ腰を下ろす。少しして、娘はやっとのことで息を整えることができた。

 彼女が話せるようになるまで義勇は静かに観察を続けたが、やはり近くで見れば見るほどに彼女はかつての友人であると思われた。ふくふくと丸かった輪郭は華奢な線を描き、目鼻立ちを含め表情も雰囲気も大人びて感じられるが、大いに面影を残している。
 頃合いを見計らって、義勇は声をかけた。

「なまえと見受けられるが……」
「……はい」

 なまえは神妙に頷いてみせる。
 人違いではなかった安堵感があったものの、義勇は早速次の言葉に詰まった。こういった時、どのように会話をするのかがよく分からない。何と話しかけるのが適当であるか見当がつかず、義勇はひとまず世間話のふりをして口を開いた。

「久方ぶりだな」

 言って様子を窺うと、義勇の心外なことになまえは気まずそうに苦笑いしてみせた。
 そして視線をそらすように下ろし、今度はなまえが言葉を返した。

「義勇様は、お久しぶりでしょう」

 義勇は、かつて「義勇」と呼ばれていたのに、今の馬鹿丁寧な呼び方に違和感や距離を感じつつ、「義勇様"は"」の部分も気にかかった。まるで、なまえは違うとでも言うような言い方である。やはり自分は世間離れしすぎていたのだろうか、と思わされる。

「会わぬ間、何をしてらしたのですか?」

 なまえからそう問われ、義勇は口をつぐむ。
 何から、どこまでを話すべきか。
 暮らしが一変した当時の記憶が、鮮やかに義勇の脳裏に蘇る。
 姉の死の顛末を打ち明けた義勇は、「身寄りと共に正気も失った憐れな子」として扱われ、親しかった近隣住民から途端によそよそしくされた経験を持つ。医者をしている遠方の親戚の家へ預けられることになり、よく遊んでいたなまえとも顔を合わせることなく別れた。彼女があの土地に留まったのなら、義勇を気の触れた人間と誤解している可能性もなくはない。
 もし誤解がなかろうとも、もう存在しない鬼の話をして何になるだろうか。不必要な恐怖を煽る結果になるか、かつてと同じように自身の誤解を招くのみ。嘘を吐くのは好きではないが、時には方便か……空白の時間をどう繕おうかと義勇が思案していたその時であった。

「……水柱様」

 馴染みのある呼び名に義勇ははっとする。
 なまえは気遣わしげな優しい瞳を揺らし、微かに微笑んでみせた。





「冨岡の家に行くもんじゃないよ!」

 なまえが家の手伝いを済ませ、いつものようにこっそり家を抜け出して蔦子と義勇の家へ遊びに行こうとしていた時だった。きびきびと口調の強いなまえの祖母が、いつも以上の厳しさをたたえて彼女を呼び止めた。

「何で?掃除も洗濯もやったからいいじゃない!」

 生意気に言い返すと、げんこつを食らう。「いでっ」と声を漏らすなまえに、祖母が神妙な顔つきで「駄目だ」と重ねた。

「あそこん家の子はおかしくなった」
「蔦子姉さん?義勇?おかしくないよ。いっつも優しい!この間お下がりの髪飾りをくれたんだよ」

 なまえは親切で穏やかな二人のことが大好きだった。厳しい祖母は愛情のない人ではないけれど、幼いなまえにとっては些か窮屈な存在だった為、よく遊び相手をしてくれる冨岡の姉弟は、なまえにとって希少な友人であり、年の近い家族のようでもあった。二人とのことを話しているだけで頬がゆるむ。
 しかし、その後祖母の口から伝えられた事実が、なまえの顔を一瞬にして凍り付かせた。

「蔦子は死んだ。熊に襲われたんだ」
「……!!!うそ!!」
「嘘なもんかい……」

 祖母の視線が家の外へ向けられる。つられるようにしてなまえが外へ気を向けると、何やら冨岡の家の方から騒がしい様子が感じ取られるようだった。奇妙な寒気がして、なまえは玄関戸の方へ足を踏み出す。

「見てくる!!」
「駄目だ!!」
「そんなの、絶対にうそ!!見て確かめてくる!!」
「義勇はおかしくなっちまった。見るもんじゃない」
「どうして!?」

 引き止める祖母など今まで何度もすり抜けてきたのに、今この瞬間、なまえを掴む祖母の手は彼女が感じたことのない強さだ。皺だらけの細い腕だと思っていたのに、いつもは見逃してもらっていたことを思い知る。
 体を震わせた祖母が「行っちゃならないよ、絶対に駄目だ」となまえを強く抱きしめる。いつになく真に迫った様子と、熊の被害、蔦子がむごい亡くなり方をしたのだろうかという恐怖に、幼いなまえは大人しく祖母の言いつけを守るほかなかった。


 それから数日もしないうちだった。
 とうとう我慢ならずに祖母の目を盗み冨岡の家へ向かったなまえは、呆然と主を失った住処を見つめることとなった。
 祖母の言っていたことは本当だった。いつも遊ばせてもらっていた家の一部は荒らされた痕跡で崩れ、見るだけで痛ましさが伝わってくる。近寄りたくても、血の跡に見える黒い何かが恐くて近寄れない。

 その時、通りがかった近所の人の声がなまえの鼓膜を揺らした。

「義勇ちゃん、可哀想にね」
「鬼が姉さんを殺したって、ありゃあ気が触れちまったんだ」





「私に親がいないことを、覚えてらっしゃいますか?」
「……ああ」

 義勇となまえは石段に腰掛けたまま、互いにどこを見て良いか心もとない様子で口を開く。

「祖母が亡くなる時に聞いたのです」

 あの口の達者な……、と義勇の脳裏になまえの祖母の姿がかすかに浮かんだ。

「お前の親は、鬼に殺されたのだと」
「……」

 何も言葉を発さない義勇の横で、なまえが足もとに落ちている葉を拾い上げる。
 手持無沙汰な彼女は、葉の根元を指先で擦り、表、裏と交互に返しながら続けた。

「祖母は鬼の存在を知っていたのです。でも、私にはずっと伏せていた。余計な心配をかけまいとしていたんだと思います」

 祖母を看取ったなまえは、何故祖母が冨岡の家へ近寄らせてくれなかったのか、頑なにその話題を遠ざけようとしたのか、言われずとも理解できた。近隣の人々は鬼の存在など信じない。おかしくなったと思われれば、義勇が受けたそれと同じような扱いが待っていただろう。
 祖母は幼い孫娘の失言を危惧していたのだ。
 しかしずっと義勇の身を案じ続ける彼女を一人残してこの世を去るにあたり、祖母の中で真実を葬り去る覚悟が揺らいだ。「お前の信じていることは間違ってはいない」と、伝えてやりたくなったのだ。

「それで、確信したのです。ならば、義勇様が仰っていたという鬼の存在、蔦子様のことは事実だろうと」

 ありがとう、と答えたい気持ちを、義勇は飲み込んだ。必要はないかと発言を飲み込んでしまう彼の癖がそうさせたが、誰からも信じてもらえず、あまつさえ気が狂ったと思われていた混沌の瞬間、人々の困惑した視線を思い出し、なまえは自分を信じてくれていたという事実が、義勇の心を優しく包んだ。

「色々の後、鬼殺隊のことを知り、微力ながら鬼狩りのお役に立ちたいと、隠をしておりました」

 そこで義勇は合点がいった。普通の娘にしては身のこなしが滑らかなこと、水柱などという言葉を知っていること。

「そうだったのか」

 二人の間をまだ冷たさをまとった風が吹き抜ける。
 なまえが、にこりと笑って義勇の方へ向き直った。

「義勇様はお久しぶりでしょう?水柱様からご指示を受けたこともあったんですよ」

 少し照れくさそうに視線を下に落としながら、なまえははにかんでみせる。
 義勇としては微妙な心持ちになった。かつての友人に一方的に見られていたとは……ばつが悪いような居心地である。
 どの時だろうかと、隠に指示を出した数えきれない程の瞬間を思い起こす。
 当然だが「下がれ」だの「気を抜くな」だの命令口調のものが多かったように思い、義勇は急に自身の立ち振る舞いが気になった。

「冨岡義勇という隊士の存在を知った時は、涙が出る想いでした。生きてらして、そして鬼を滅する立場にあられるのだと……。入隊してから初めてお見掛けした時は、その……雰囲気がだいぶ変わってらしたので心配ではあったのですが」

 何とも身の置き所のない気分ではあるものの、沢山の時が脳裏に蘇り、義勇は黙ってなまえの話に耳を傾けた。

「最後まで……ご立派でした。産屋敷様、柱と隊士の皆様と……みんなのおかげで……」

 そこまで話して、なまえは言葉に詰まった。
 鬼の始祖である無惨を倒し、鬼を滅するという隊の悲願は果たされた。
 しかし、その代償に奪われたものも多かった。甚大な被害と痛みを抱えて、残った者はその命を全うせねばならない。責務のようにも思える"生"を抱えながら過ごすかけがえのないこの瞬間において、大切な人々の命や想いは、鬼を滅したとて明るく語れる内容ではなかった。


「なまえもいたのか?」

 少しの沈黙の後、義勇が口を開いた。

「ええ、救護の方に。始祖が消える瞬間も、この目で見ました。その後の、炭治郎のことも」
「そうか」

 時折、夢に見るほど鮮明な記憶は、思い返すだけで匂いごと蘇る。
 血と泥と汗と涙の混ざった、想いの全てが渦巻いた瞬間のこと。

 苦い悪夢のようでありながら、しかし人生において決して忘れることのできない、重要で大切な瞬間。

 思い起こすことは度々あれど、このように誰かとあの体験を振り返ることのなかった義勇は、不思議に落ち着くような感覚を覚えた。
 鬼のいた世を知っている、あの出来事の顛末を知っている人物。古く、かつて親しくしていた友人が、例の体験を共有できる相手である巡り合わせは、貴重で有難いことのように思えた。

 これからの時間を如何様に生きてゆくべきか。
 そればかり考えていた義勇は、懐かしさに心が柔らかくなる感覚を覚える。頬をなでる風も心なしか心地よい。

「そういえば、義勇様何かご用事があったのでは……」
「ああ……大した用事ではないから、」

 そこまで言いかけた義勇は違和感に耐えかねて、はたと発言を止めた。

 隠として隊に所属し、彼女の方は自分を見てきたようだが、義勇にとってはかつて共に遊んだ幼い頃の印象が強い。「様」をつけて呼ばれたり、崇めるように丁寧な言葉遣いはかえってむず痒く感じられる。

「鬼殺隊は解散した。俺はそんな大層な者ではないから、その、改まった話し方はやめてくれ」

 しかしなまえはまっすぐな瞳で義勇を見つめ、揺るがぬ想いを口にする。

「私には、これから先も、一生尊敬する水柱様で変わりありません」

 二人の間を春の風がすり抜けていく。

「なまえももう隠とは名乗らんだろう」
「私は、ただの娘です」
「ならば俺も同じだ」

 「そんな!」と言いかけてたじろぐ、彼女の気遣い屋な一面を見て義勇の脳裏に幼少期の一幕が浮かぶ。

 ままごと遊びをしながら「本当の家族みたい」と口にしたなまえに、蔦子が「姉さんと思って、そう呼んでくれてもいいのよ」と言った時も、嬉しそうにはにかみながら、しかしもじもじして実の弟の義勇に気を遣っていた彼女の姿。

 なんと言えば彼女は納得するか。

 考えあぐねる義勇と、言葉を失ったなまえの上で風に揺れた大木の枝葉がさわさわと心地よい音を立てる。


「……鬼の、いない世になった」


 義勇の口から、意図せず滑り落ちるように言葉が漏れた。
 その言葉になまえがはっとする。

 鬼のいない世になったのだ。
 鬼のいない世になったのだから。

 鬼を滅することも、その為の役目のすべても、もう。


 少しばかりの沈黙のあと、膝の上で握った手を見つめたまま、なまえが意を決したようにおずおずと口を開いた。

「ぎ、ゆう……」

 時を経たかつての呼び名が、二人の間に懐かしく響く。

「義勇」

 窺うように恥ずかし気に放たれた名に義勇が様子を見ると、昔と同じようにはにかんだなまえが「またお会いできて良かった」と笑っていた。

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