狭霧山にて4
「人を喰わぬ分、禰豆子は睡眠により回復するようだが、此度の眠りが深く、目覚める様子がない」

 静かに、真剣に聞くなまえに、鱗滝は続けた。

「兄を襲わなかったことを受け、人が家族に見えるよう暗示をかけてみている。家の中へ入っても構わないが、恐ろしくはないか?」

 鱗滝に問われ、なまえの表情が強張る。
 彼女は鬼に襲われた経験を持っている。それにより、家族を失っている。正直に言って、恐ろしさは拭えない。

 しかし今日、一晩世話になるつもりで狭霧山を訪れたなまえは、ここで中に入らぬ判断をすると、早々に帰路につかねばならない。

 せっかく会えた恩人と再び別れ、長い道のりをとんぼ帰りして自ら孤独な日々に戻ることを考えると、彼女の心は揺らいだ。人を襲わぬと水柱が判断し、鱗滝が暗示をかけているという、あの少年よりは小さいであろう妹を、一目見てから決めるのでも遅くはない。ここならば、心の拠り所である頼れる恩人が傍にいるのだ。

「……はい」

 大丈夫であると示す相槌を、なまえは慎重に打つ。
 鱗滝さんは優秀な剣士であったから、傍を離れるまい。そう心に決めて、なまえは鱗滝と共に足を進めた。





 すうすうと静かな寝息を立てる小さな女の子の姿に、なまえは見るなり釘付けになった。

 恐る恐る、鱗滝の羽織にしがみついて家に入ると、奥に、聞いた通り女の子が寝ている様子が見て取れた。なまえは鬼の娘と聞いて、牙を生やし涎にまみれた恐ろしい風貌を思い描いていたが、目の前にいるその子はまだ幼く、十を少し過ぎたくらいの子どもに見えた。
 目鼻立ちの整った、陶器のように抜ける白肌の美しい女の子。血の気のない様子が若干浮世離れしてはいるものの、鬼などとは、言われねば到底分からない。言われても、分からないかもしれない。

 鱗滝の後ろに隠れたまま、なまえは禰豆子をそうっと覗き込み、見える範囲を確認した。
 僅かな光にも影を作る長い睫毛、額を出して結った髪の毛。黒い羽織。その流れで指先に尖った爪を見つけ、ひやりと冷たい感覚がなまえの内側を走り抜ける。

 それでも。
 年端もいかない子どもが、自分でも知らぬ間に鬼にされてしまったこと。
 家族を失い、例の少年にはこの妹しか身内がいないことを思うと、なまえは彼女を恐がって良いものか、胸が苦しくなった。鬼も元は人なのだと、なまえは思い知る。鬼が、鬼などがこの世に存在しなければ。

 鬼を憎く思う気持ちと、目の前の少女を気の毒に思う気持ちがないまぜになって、なまえはその複雑さに戸惑う。

 その時、表へと繋がる戸がゴトゴトと音を立て、彼女の兄が戻ってきた。

狭霧山にて4

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