狭霧山にて
 まだ離れてそんなに月日が経った訳でもないのに、懐かしく感じる小径。それを抜けた先に命の恩人の姿を見つけ、なまえは足音を忍ばせた。
 そろり、そろりと一歩ずつ近付くにつれ、彼女の胸に期待と焦燥が募る。
 肩に手を伸ばそうとしたその時、薪割りをしていた鱗滝左近次がさっと振り向いた。

「なまえ、よく戻った」
「鱗滝さん!!」

 なまえは水柱邸では使うことのなかった筋肉を使い、満面の笑みを浮かべた。
 鱗滝を驚かせることは敵わなかったが、彼女はそれで良かった。鱗滝がなまえの匂いを覚えていてくれたこと、そしてこの場所へ彼女が訪れることを「戻る」と表現してくれたことが何よりなまえの胸を温かくさせた。

 水柱邸へ行ってから、彼女はずっと緊張と孤独の中にいた。
 水柱はもしかすると思っているほど冷徹ではないかもしれないし、隠の女性達もたまに来てくれる。鎹鴉の寛三郎とも親しくなれた。そんな風に思えるようになってきてはいたが、基本的にほとんどの時間、なまえは一人で過ごすことを強いられる環境にある。
 屋敷の留守を預かっているため、隠の手伝いがない日は外出もままならない。義勇や隠がいつ現れるかもはっきりとは把握できない為、いつも待ちぼうけのような気分で過ごしている。

 義勇が戻ったとしても、彼が話し相手になることなど勿論ない。
 義勇が屋敷に滞在している時間は限られており、食事や稽古、仮眠など、水柱の邪魔にならぬようなまえは下がっていることが多い。

 ひとつひとつの事情はよく理解しているので、彼女は女中としての生活にひたすら打ち込み続けてはいる。しかしなまえが内側に秘めた寂しさや人恋しさは、本人にも気がつかないうちにその存在感を増していたらしい。

「……頑張っているんだな」

 鱗滝はそう言って、深い皺の刻まれた手でなまえの頭を優しく撫でた。
 本当は、元気にしているか、と問おうとしたのだが、彼女の笑っているのに潤んだ瞳と、全身から漂う寂しさの気配が鱗滝の言葉を変えさせたのだ。

「え……?に、匂いでそのようなことも分かるんですか?」

 なまえが瞬きで涙を誤魔化して問いかける。鱗滝は今度は彼女の肩を優しく叩き、安心させるように続けた。

「ああ、何でも分かる」

狭霧山にて

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