「そうか」の君
 なまえに言わせれば、彼の別名は「”そうか”の君」である。

「冨岡様! 大好きです!」

 何故って、いつも同じような返答しか紡ぎ出さないからだ。

「そうか」

 それがなまえには、とても気に入らない。





「冨岡様のことを、お慕いしておりますっ」
「そうか」

 なまえは食後に出された茶を啜る義勇の横、正座は崩さないながらも前の畳へ手を付き、身を乗り出さんばかりの勢いで語りかける。

「なまえ! はしたないことを申すべきではありません。冨岡様、娘がご無礼を申しまして失礼いたしました」
「いえ」

 箱膳を手に持ったなまえの母はきりりと彼女を睨みつけて叱り、もてなすべき若き客人に頭を下げ座敷を後にする。なまえは少し俯き、ばつが悪そうに母の背を見つめた。


 なまえは藤の花の家紋の家の娘である。
 彼女の家は、先祖が助けられた恩に報いるため代々鬼殺隊に協力しており、鬼狩りが訪れれば厚くもてなし、束の間の休息や寝食の場を提供している。

 なまえは齢十になる。心は立派な乙女だ。数歳ばかり年上の、「”そうか”の君」こと冨岡義勇という隊士に懐いていた。


 彼女は普段、鬼の存在を公言することはない。
 それが鬼殺隊を守る為に必要なことだと心得ているからだ。

 しかしそんななまえはある時、友が漏らすのを聞いてしまったのだ。

「夜、寝付きが悪く外を眺めていたところ家の外に鬼を見た。恐れ慄いて息を殺していると、亀甲柄と無地の片身替わりをお召しになった方がどこからともなく現れ、人知れず鬼を退治していた」と。

 誰も信じてはくれないと嘆く友の言葉を、なまえは誰よりも深く信じた。

 何故ならば、その片身替わりの鬼狩りを知っていたからだ。

 それ以来、なまえの内側には、鬼狩りへの感謝や尊敬以上の気持ちが宿るようになった。
 度々我が家を訪れる片身替わりの隊士が、まるで正義の味方のようで頼もしく、そしてその正義の味方が、自分の家を頼りにしてくれることもまた、彼女にとって大きな誇りとなり、嬉しかった。

「そうか、ではなく冨岡様のお言葉を伺いたいのです。私をお嫁にもらってくれませんか?」

 母が居ないのを良いことに、なまえは再びあどけなく問いかける。
 義勇は口元を軽く拭い、顔色を変えずに答えた。

「無理だ」
「何故です!?」

 義勇のつれない返答を受け、嘆き面のなまえが声をあげる。しかし義勇がそれ以上、なまえの問いかけに応えることはなかった。





 何故も何もない。

 先程までのやりとりを忘れたのか、すっかり機嫌を直して庭で鞠をついているなまえを眺めながら、義勇はそう思った。

 義勇の仕事は鬼狩りだ。妻を娶り養うことなど考えられない。
 明日の命をも分からない身で、誰かを待たせることなどできはしないのだ。

 隊士になって間もない頃のこと。出血の傷を負ったある朝、義勇はみょうじ家に立ち寄った。手際良く手当するなまえの父母の後ろで、心配に顔を歪ませていた幼いなまえの様子が、今も義勇の脳裏には焼き付いている。





「何かの際はいつでもお立ち寄りくださいませ。では、切り火を」
「感謝します。……なまえ殿は?」

 いつもなら羽織の裾を掴んで別れを惜しみにくるなまえの姿がなく、義勇は不意に彼女の名を口にした。
 なまえの母は困ったように笑って答えた。

「あの子ったら。どうしたら冨岡様のお嫁様になれるかとしつこいものですから……鬼も斬れず家事も未熟なお前のような娘を冨岡様が好く訳なかろう、と主人が嗜めまして。それからいじけてしまって、このようにご挨拶にも来ない始末です。いつも五月蝿い上にこのようなご無礼を働き、誠に申し訳ございません」

 思ってもみない顛末にたじろぎながら、義勇は軽く相槌を打つ。

「……いえ」

 彼の後ろで火打ち石の音がなった。





 義勇は出発してしまうし、父には身も蓋もないことを言われるしで、なまえは泣き腫らした重い瞼と、そのせいで催す眠気を持て余しながら石壁にもたれ鞠を抱えていた。

 悲しい、悲しい気持ちでなまえが鞠を落とす。すると鞠は足先に当たり、思いもよらない方向へころころと跳ね進んでしまった。

 何もかも良くない。そんな気持ちで追いかけていると、急に鞠が誰かに拾われた。なまえは顔を上げなくても、それが誰だか分かった。だって何故なら、あの美しい羽織が目に入ったからである。

「鞠を追うのに夢中になって、陽の当たらぬ処へ寄るなよ」
「わ、分かっております」

 唇を尖らせ抗議するようななまえがいじらしい。彼女は義勇と、目を合わせようともしない。
 嗜める為とはいえ、彼女の父が自身の胸の内とはかすりもしない言葉を代弁したことに、義勇は少々困惑していた。

「なまえ」

 鞠を彼女の手元へそっと受け渡しながら、義勇が一言添える。

「誤解するな。俺が妻をとらないのはお前を好いていないからではない」
「?」

 ない、が多い。
 それでなまえが義勇の言葉を理解するのに、少しばかり時間がかかった。
 
 その間に、義勇は振り向き反対方向へと進み始めてしまう。

 「好いていないからではない」というのは、つまりどういう意味であろうか。その文言は、如何様にも受け取ってしまえる言葉のようになまえには感じた。頬が熱を帯びていくようにぼうっとする。

「冨岡様! 御武運をお祈りしております! なまえは、これからもずっと冨岡様のことをお慕いしております!」

 なまえが進みゆく背中へ祈りを捧げる。

「そうか」

 それだけ言って、「”そうか”の君」は瞬きのうちに姿を消し、気高い任務へと飛び去ったのだった。

「そうか」の君

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