事の始まり
「俺には必要がないので特段来ていただかずとも良い」

 出会って最初の一言がこれであったので、女中の間で水柱の第一印象はめっぽう悪かった。

 冨岡義勇が柱になったのは少し前のことだ。
 柱には、鬼殺隊を率いる産屋敷耀哉、通称・お館様から、充分な稽古と鍛錬、休息が確保できるよう屋敷が用意される。一人で切り盛りするには広い屋敷であり、柱の身の回りの世話をするにあたり女中も数人手配される仕組みだ。女中は隊士にはなれないが鬼殺隊に因果のある者、または人出が足りない時は隠が交代で兼任することもあった。

 鬼殺隊はその性質ゆえに、常に人が入れ替わる。義勇が柱となった時も、女中として配置できるような人員が足りず、そのほとんどが隠を兼任する形での派遣となった。新しく柱となり、これから主人となる義勇との対面に程よい緊張と期待を持っていた女中担当達は皆、この言葉の足りない水柱の台詞にやや不躾な印象を持った。

「冨岡様、それは……どういうことでしょう……?」

 一人が尋ねると、義勇は顔色を変えず視線を女中達へ寄越すこともなく続きを告げた。

「今までも一人であったし、屋敷を留守にすることも多い。他を優先してください」

 これは義勇に言わせれば、"自分のことなどに構わず、ご自身の任務や生活を大切にしていただいて構いません"という意味なのだが、いかんせん彼は表情と言葉の少なさを多くの瞬間、仇にしている。

「私たち、水柱様の身の回りのことをするよう言われてきたのですが……隠ではありますが、人数もおりますので交代・協力して勤めを果たします」
「結構です。隠も人手が足りていない。ここに留まっては機会の無駄だ」
「そんな……でも、」
「俺はそのような待遇を受ける人間ではないので」
「……」

 一体この柱は何を考えているのか、女達が物を申せずにいると、当の水柱は「稽古をするので失礼する」と部屋を出て行ってしまった。

 ふすまが閉められ、足音が遠ざかり、しばしの沈黙が続いた後、隠の女達は堰を切ったように口を開いた。

「え……これどういうこと?」
「私たち、隠の任務に戻れってこと?」
「それより、今の言い方あんまりじゃない?突然呼ばれたと思ったらこれって……」

 専任の女中が揃うまで交代で勤めるに辺り、どのように協力しようか話し合ってきた隠達は口々に不満を漏らす。

「水柱様の言った通り、隠も人手不足。あの方のご指示通り、私は一旦戻ることにする」

 一人の女が言い出し、残りもつられるようにして荷物を手に取り出す。

「もし必要があれば声が掛かるでしょう。私たちは冨岡様のご指示に従って、自分の任務を行いながら待っていればいいんじゃないかしら」
「せめて曜日を決めて交代で見にくるくらいはした方がいいんじゃない?」
「それもそうね。じゃあ私は月曜日。」
「なら私は……」

 同じ思いをした女達の結束は固く、すぐに担当の曜日決めとなった。

 ただ一人、なまえを除いて。

「そういえば、あなたは……?」

 それぞれの担当曜日が決まったところで、一人話題に入れずにいるなまえに気がつき、女の一人が声をかけた。

「わ、私は隠ではなく女中専任で参りましたのでこちらに留まります」

 おずおずと口を開いたなまえを見て、「まぁ……」と隠の女達から同情とも安堵ともとれる声が漏れる。あの関わりにくそうな柱に専任でつくことを気の毒に思うような、いくら主人に言われたからとは言え本当に屋敷を出て良いものか迷う中の朗報のような、複雑な息遣いである。

「一人くらいは常にいた方がいいもの、ね」
「そうね……私たちも交代で手伝うから、もし手が足りなければすぐにこちらへ来るから言ってちょうだいね」

 なまえを年下と見た隠達は、姉のような気持ちで彼女にそう伝えたのだった。





「ということで、私たち一旦は隠の仕事に戻ります。交代で屋敷の管理には参りますのでご安心くださいませ。もし手が足りぬことがあればいつでもお呼び立てくださいませ」
「分かった」

 想像通り言葉少なな主人の様子に見えないよう目配せしながら、隠の女達は屋敷を後にする。そうして義勇の屋敷は再びの静寂に包まれた。

 稽古を終えた義勇は安堵感に包まれていた。
 自身は柱という立場に身を置いて良い人間ではない。しかし鬼を狩り続ける強い意志があり、お館様に任命された以上、それを断る術も持っていなかった。迷いの中にある義勇にとって、数人の女中が自分に仕えるなど分不相応で考えられぬことであった。せっかく足を運んでもらったところ悪いが、女達が帰ったことで胸のうちの突っかかりが少しばかり取れた気分だった。

 そのような心持ちであったので、夜の任務に向け仮眠を取ろうとふすまを開けた先に、頭を手ぬぐいで覆いはたきをかけているなまえを見つけた義勇は、心底驚いた。

「……」
「……」

 言葉を失った義勇と、何やら怒っているように見える主人の様子を窺うなまえは互いに見つめ合う。

「……」
「……」

 何から話せば良いか分からない義勇と、何を言われるのか恐れるなまえは、沈黙の後、今度は同時に声を発した。

「何をしている?」
「……冨岡様?」

 まるで侵入者のような言われ方をしたなまえは慌てて手ぬぐいを外し、膝をついて頭を下げた。

「わ、わたくしは女中を勤めさせていただきますみょうじなまえと申します! どうぞよろしくお願いいたします!」

 義勇は帰り際の女たちの言葉を思い返した。交代で担当すると言っていたので、今日はなまえが屋敷に残ることになったのかと思い至る。

「屋敷で行うことはほとんどないでしょう。今日はお戻りください」

 半分は本心の気遣いであり、もう半分は義勇の偽りのない胸のうちでもあった。屋敷はまだ新しく手入れの必要はない。食事の用意や洗濯といった作業の必要性も今はないし、控えている任務により今後屋敷を空ける予定もある。誰かにいてもらうこともない。むしろ調子が狂うので一人にさせて欲しかった。

「それが……」

 義勇の言葉を受け、なまえは気まずそうに視線を下げる。彼女には、彼女の事情が存在した。

「私は隠と兼任ではないので、先輩方と話して常在することになりました」
「……常在」

 ここまでの口ぶり、様子から、義勇が女中を歓迎していないことは十分に見て取れた。なまえは恐る恐る確認する。

「ご、ご迷惑でしょうか?」

 はっきり言って迷惑だ。義勇は喉元まで出かかった言葉を飲み込んだ。さすがに来てもらった立場で口にする訳にはいかず、少しだけ形を変えて言うことにする。

「常在は必要ない。隠ではないなら、他の柱の屋敷を当たると良いでしょう」

 義勇の言葉を受け、当惑したなまえはますます表情を曇らせる。

「鱗滝様からお勧めいただき、こちらへ参ったのですが……私は家がなく戻る場所がございません。大変恐縮ではありますが、他の柱様のところへ行くにはどのようにすれば良いものか見当がつきません」
「先生に……?」

 恩師の名を耳にして、義勇は改めてなまえを見た。
 年は自分より、少しばかり下だろうか。緊張してこわばった表情と青ざめた顔色が見て取れる。家がないとはどういうことか。

「家が鬼に襲われ……命からがら逃げだし、気を失っているところを鱗滝様に助けていただきました。しばらくお世話になっていたのですが、義勇様が柱になられるならば女中として屋敷へ行くよう勧めていただき参りました」
「……」
「ご迷惑かと存じますが、私には行く当てがございません。お邪魔はせぬよう努めますので、ご奉公させていただけませんでしょうか」

 頭を下げるなまえを眼前に捉えながら、義勇は恩師の行動に疑問を持った。何故突然娘を自分の下へ預けようとしたのか。先生の判断には何か理由があるはずである。彼女の申し出を断りたい気持ちをぐっと堪え、義勇はまず鱗滝へ手紙を送ることにしたのだった。



 なまえは狭霧山の麓で発見された娘である。
 ところどころ血がついた身体、裸足で倒れている様子からすぐに鬼の被害にあったことが分かった。鱗滝は彼女を家へ連れて帰り、回復するまで面倒を見た。
 回復した彼女は鬼狩りの存在を知り、鬼殺隊士になりたいと志願したが、どう見繕ってもなまえには標準的な女子の身体能力しかなく、到底訓練に入れるような状態ではなかった。
 気落ちしていたなまえであったが、状況が少しばかり落ち着いてみれば、彼女は大変気立てが良く働き者であった。そこで鱗滝はどこか奉公先として受け入れてくれるところはないか探すことにしたのだが、どうにも見つからない。その時ちょうど義勇が柱になる知らせを受けた。
 屋敷が用意されれば女中が必要であろう、なまえの居所として最適である。お館様に事情を話すと快く勧めてくださった。柱としての任務はより過酷になるであろう。任せられることは彼女達に任せ、身体に気を付けて精進せよ。


 仕方なくなまえを置いた次の日、任務帰りに鎹鴉から受け取った鱗滝の返事は、要約するとこのような内容であった。
 概ね予想通りではあったが、文となって伝えられると義勇には改めて荷が重く感じられた。

 自分は柱として扱われるような立場ではない。

 任命されてからずっと、その気持ちが義勇の胸の内を占めて止まないでいる。ただでさえこの大きな屋敷に留まることへの居心地の悪さがあるというのに、女中から主人として気にかけられるのは煩わしく、御免蒙りたい。

 かと言って鬼に家を襲われ、家族も帰る場所も失った娘が、正当な理由を持って屋敷へ配置されたのである。義勇はそれを覆す正当な理由を持ち合わせてはいなかった。

 重い心持ちで渋々と屋敷へ戻った義勇は、慣れない玄関の戸を引き中へ進んだ。
 初めて足を踏み入れた時と違うよく換気された空気感がそこに存在することは、思案中の彼の知覚には届かなかったが、少なくとも板張りの廊下が綺麗に磨かれていることはすぐに見て取れた。

「お、おかえりなさいませ冨岡様!ご無事で何よりでございます!」

 義勇の帰還に気が付いたなまえは、昨日顔を合わせた時と同じように慌てて手ぬぐいを外し、床に三つ指をつけて頭を下げた。彼女に悪気がないのは理解できるものの、義勇としてはこう恭しくされると居心地の悪さが増すようである。義勇は小さく会釈を返し、風呂場へと一息に進んだ。
 なまえは無口な主人にどう仕えて良いものか不安な面持ちで顔を上げる。義勇もまた悪気はないのだが、彼女からは限りなく不機嫌な表情に見えたし、小さな会釈は頭を下げたなまえには当然届かず、無視をしたように捉えられた。



 なまえを避けるようにして洗面所へ来た義勇は、ひとまず湯の支度をしようと薪を持ち浴室の戸に手をかける。しかし戸を開けてみれば浴室は湯気に満ちており、風呂釜の中にはなみなみとした湯が既に用意されていた。屋敷にいる間は自分で支度していたのもあり、これには義勇も感謝を覚えた。


 汗と汚れを落とした後、義勇は簡単に握り飯をこさえ小腹を満たし、稽古場へ向かう。
 刀を素振りし、的に狙いを定めて技を繰り返す。一通り日課にしている鍛錬を終えた義勇は他に必要な動きはないか入念に考える。あれやこれや、としばらくの間身体を動かしたが、しまいには大きなため息が漏れた。

 いつにも増して稽古場にいたのは、正直なところなまえを避ける為である。しかし、この屋敷が自分のものである以上、自身が避けていても問題は解決しない。余計なことは考えず、交代で来る隠も含め彼女達には勝手にしてもらえば良いのではないか。自分はこれまで通りに任務を行うことに集中すれば良い。

 大きな屋敷と数人の女中の存在、そしてなまえを常在させねばならないのかという問題は、新任の水柱を鬼のように悩ませた。本末転倒である。

 こう思考にもやがかかっては事を仕損じる。頭をシャキッとさせようと、義勇は水を浴びに再び浴室へ向かった。
 しかし浴室の戸を開ければ、浴びるのにちょうどいい量と温度の湯が釜に用意されているではないか。

「……」

 義勇は大人しく桶で湯を汲み、汗を流した。
 着替えを済ませ、昼食について思案しながら廊下へ出たところ、なまえと鉢合わせてしまった。

「……」
「……」

 何を話せば良いか分からない新任水柱と、何を考えているか分からない主人を前にした新米女中は再び見つめ合う。

 勇気を出したのはなまえの方だ。

「冨岡様、昼食の支度はできております。……お召し上がりに、なりますでしょうか……?」
「ああ、」

 自分の屋敷であるのに客人のようにもてなされ、義勇は何の手間もなく腹を満たすことができてしまった。

 片付けが済み日課を全て済ませた義勇が壁に掛けられた振り子時計を確認すれば、仮眠を取るには普段より随分と早い。しかし他にやることも見当たらず、出歩いてなまえにまた敬われては堪らない。仕方なしに義勇は横たわり、身体を休めることにしたのだった。



 まだ夕刻の気配と呼ぶには早い時間に、鎹鴉からの知らせを受け水柱は目を覚ました。
 近くで鬼の出没情報が出たらしい。被害が出てからでは遅い。義勇は夕刻を待たずすぐに怪しい動きのあった場所へ向かうことにした。

 少しばかり崩れた隊服と羽織を直し、立ち上がって刀を持ち直した時、義勇は自身の身の軽さに気が付いた。普段より長く仮眠できたからであろうか。睡眠の力は侮れない、など考えながら玄関へ向かう。

 常在しているなまえのことを忘れかけていたので、足音に飛び出してきた彼女を見て義勇はやや面食らった。
 なまえは、息をあげながら慌てた様子で義勇へ近寄り、そっと竹皮に包まれた握り飯を差し出した。

「よろしければ、お持ちくださいませ」

 義勇はいつも藤の花の家紋の家でこのようにもてなされることを大変ありがたく思っている。自分のようなものに頭を下げることなどないと思う気持ちもあるが、決まってあの家の者は「鬼狩り様のお蔭」と口にした。

 なまえも同じ気持ちなのであろう。水柱が任務に集中できるよう、最善を尽くしている。そして現に、義勇は自身が普段より状況を整えた上で出発できることを感じ取っていた。


――任せられることは彼女達に任せ、身体に気を付けて精進せよ。


 義勇の頭に恩師の言葉が蘇る。
 柱とは何か、というのはひとまず抜きにしても、この娘も、隠達も、自分も、鬼を滅することが目的に他ならないのだ。立場により、選択肢が異なるだけである。

「感謝する。夜間は藤の香を絶やさず焚き、藤の花の香袋は必ず身に着けておくように」

 なまえから竹皮の包みを受け取った義勇は、そう告げると目にも止まらぬ速さでその場を後にした。

「えっはい、わっ!」

 本物の鬼狩りの動きを初めて間近に見たなまえは、主人の俊敏さに子どものような反応を示し、呆然と立ち尽くすばかりであった。


 冨岡義勇となまえのぎこちない屋敷生活は、このようにして始まったのだった。

事の始まり

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