沁みる4
「こんなに気立てのいい方を冨岡さんの元に置いておくのは勿体なくて、発つのが惜しまれます。こちらに愛想を尽かしたら、是非蝶屋敷へお越しくださいね! 歓迎します」

 帰り際、またしてもしのぶが飄々と挑戦的な台詞を義勇に言い放ったので、なまえはひやりとした。

「わ、私などにはもったいないお言葉です」

 なまえは恐縮してぺこりと頭を下げる。しかし彼女の胸の内は少しばかり複雑であった。
 あの時蝶屋敷への行き方が分かっていたらどうだっただろう、と、水柱と初めて顔を合わせた日に別の柱の元へ行くよう勧められたことが、彼女の中で思い起こされた。
 蝶屋敷には同じ年頃の女性が沢山いて、仕事も多様にみんなで暮らしているらしい。その様子を聞いたなまえは、少し羨ましいような気持ちになった。

 なまえの横に立ち礼を言った義勇の方は、しのぶの言葉を受け黙り込んだ。
 一人でも出来ることは出来るが、やはり屋敷へ戻った時に食事や風呂の支度が済んでいるのは大変にありがたい。屋敷そのものもいつも綺麗に整えられているし、今なまえがいなくなったらそれはそれで困るな、といった考えが彼の頭を過った。

 しのぶはほんの少し瞼を落として義勇の様子を確認し、(本当に必要なことを口にしない人だな)と若干の苛立ちを感じながら、なまえに向き直った。

「まあ、水柱邸にはなまえさんが必要みたいですから無理にとは言いません。……でも、本当に。話し相手には事欠かないでしょうから、いつでも遠慮なくいらしてくださいね」

 二人きりの時に見せた温和で気遣わしい表情のしのぶに、なまえは胸を高鳴らせながら頷き、ほどなくして義勇となまえはしのぶに別れを告げたのだった。





 ――数日後。

 なまえは本当にこの心構えで良いのか非常に緊張しながら、水柱の出発準備をしていた。道中に食べられるよう用意した、握り飯を包んだ竹皮と竹筒を抱え、土間で脚絆を着けている義勇の元へ進む。掛けている義勇の横へ荷物を置き、なまえは口を開いた。

「こちらお召し上がりくださいませ」
「ああ、感謝する」

 ちらりと振り向き礼を言った義勇。その後ろで、もう一言掛けても本当に大丈夫か、そわそわと落ち着かない様子でなまえは視線を泳がせる。
 そんなこともつゆ知らず、支度を整えた義勇がさっと立ち上がる。
 機会を逃すまいと、なまえは勇気を振り絞って言葉を発した。

「み、見てください! 胡蝶様にいただいたお薬を使用しましたら、みるみるうちに手が回復いたしました!」

 なまえは控えめに胸の前辺りで両手の甲を義勇に披露してみせる。義勇は言われるままに視線を彼女の手元に落とし、なまえが思っていた以上にしっかりと両の手を観察した。

「そうか。では胡蝶に礼を言っておく」
「はい! どうぞよろしくお願いいたします」

 返答はいつものようにあっさりしたものだった。
 しかし義勇が受け流すでもなく、またなまえの手を流し見するでもなかったことを受け、なまえはもう一言伝える勇気を得た。

「あっあの、義勇様!」

 振り向きかけた義勇になまえが声を絞り出すと、彼は足を止め素直に彼女の方へ向き直る。

「胡蝶様も勿論ですが、気にかけてくださった義勇様にも、心より感謝申し上げます。どうもありがとうございます」

 反応が心配なので、なまえは言い終わると同時に深々とお辞儀をして、焦る気持ちをごまかした。口から心臓が飛び出そうな気持ちで、なまえはゆっくりと顔を上げる。

 しかし、なまえの心配は杞憂に終わった。

「世話になっているのだから当然だ。足りない事があれば言ってくれ」

 相変わらず何を捉えているのか分からない表情ではあるものの、義勇は間を開けるでもなくそう告げ、さっと振り返ったのだった。

「俺が不在の間は藤の花の香を絶やさぬように」
「はい。承知いたしました」

 それからお馴染みの会話を重ね、なまえは義勇の背を見送った。





 屋敷の戸締りを終え女中部屋に戻ったなまえは、就寝前最後の薬を塗り終え、薬瓶をしまおうと引き出しを開けた。そっと薬瓶を戻すと、以前受け取ってしまっておいたちりめんの巾着とはぎれに目が止まる。そういえば結局これは一体何だったのだろうか。

 かつて水柱に言われた「好きに使っていい」という言葉、あれは呆れて見放されての発言かと思っていたが、もしあの方が言葉の少ない方であるならば……。
 荒れた手を見て作業せずとも良いと言ってくださる優しい側面をお持ちの方だ。
 そう考えると、これはもしや、ただ私にくださったものなのだろうか。そんな憶測がなまえの中で沸き起こった。

 真相はまだ藪の中。
 しかしこれもまた、きちんと言葉にして、いつか聞いてみれば良いこと。

 藤の花の香に交じって、薬特有の香りが鼻腔に広がる。
 可憐なしのぶの言葉と、冷血漢だと思っていた義勇が迅速に対処してくれたありがたみが蘇るようで、なまえはほこほことした。
 
 薬を塗り込むごとに、それは心に沁み入るようだった。

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