沁みる2
 玄関に足を踏み入れた義勇は、違和感を覚えた。

 なまえが現れない。
 いつもなら何か別の作業をしていても聞き耳をしっかり立てていて、義勇が玄関を抜けるとすっ飛んで挨拶しに来るのが常なのに、今日はそれがなかった。
 いつの間にかなまえのいる生活に慣れてきているらしいことも、その彼女が見当たらないことも、どちらも水柱にとって小さな驚きであった。

 離れた座敷の掃除でもしているのか、もしくは裏庭でも掃いているのだろうか。
 義勇は考え事をしながら、ひとまずは身体の汚れを落とそうと風呂場へ向かった。

 浴室の戸を開けた義勇は、そこで思いもしなかった光景を目にした。
 風呂場にはなまえがいた。彼女は戸の音に驚き振り返ったが、その姿は彼が想像だにしないものだった。

 瞼は赤く腫れ、頬はびしょびしょに濡れている。
 最初、義勇はまた水浴びでもして濡れたのかと考えたが、ほんのりと赤く染まった鼻の頭、着物や髪は濡れていない様子に、彼女の頬を濡らしているのは涙なのだと分かった。

 なまえは突然の水柱の帰還に慌てふためき、どうにか汚れていない袖の辺りで急ぎ涙を拭った。前線に立ち鬼を狩っている柱の前で、めそめそ泣くなど恐れ多い。覚悟の足りなさに叱責を受けることになるかもしれないとなまえは身を強張らせた。

「何があった」
「あっ、いえ……これは、」

 水柱からの急な問いかけに、なまえが言葉を濁す。
 義勇は、先日振り払ってしまったのではないかと気にかかっていた彼女の右手に目をやった。ところが、今日赤いのは右の手だけではなく、左の方まで揃ってのことだった。よくよく見てみると、雑巾を持つ彼女の手はひびわれだらけで、ところどころから血が滲み、全体が赤くただれているように見える。およそ年頃の娘とは思えぬような傷みように、義勇は思わずなまえの手を取った。

「痛むのか?」

 突然義勇に手を取られたなまえは恐縮して腕を引っ込めそうになった。掃除中の綺麗とは言えない手を、お務めから戻った水柱に触らせるなど考えられない。しかし先日の座敷で掴まれた時とはまるで違い、義勇の手は温かく、頼もしかった。力のないなまえの手先をしっかりと支えて観察しながら、痛みが生じないよう繊細に力加減してくれているのが彼女にはじんわりと伝わった。

「……はい」

 どこが痛むかと言われれば手先のみならず、本当は家族や鱗滝を恋しく思う心も、どうも水柱邸に慣れ親しむことができない自分自身も、それらをひっくるめて「すべて」である。けれども、主人の言葉を受けて、なまえは痛みの原因の全てをあかぎれに押し付け、おずおずと頷いた。

 こんなことで音を上げたら、女中など必要ないと思っている水柱に今度こそお役御免を言い渡されてしまうかもしれない。そう思うと、なまえは次の言葉が思い浮かばなかった。

 しかし黙るなまえの鼓膜が捉えた義勇の言葉は、考えていたよりもずっと親切なものだった。

「同僚に薬学に精通している者がいる。明日には薬を用意するから今日は作業しなくていい」

 思ってもみなかった言葉になまえは恐縮し、手元を見つめた。
 彼女の手を持っている水柱の手の方こそ、癒えてはいるものの傷だらけだ。鍛え抜かれ、分厚い皮に覆われた手のひら、節くれだった指を携えた、どっしりと重そうな剣士の手である。
 なまえは重ねて軟弱な自身を恥じ、申し訳ないような気持ちになった。
 義勇はそんななまえの恐縮は気に留めず、彼は彼でこのところ頭をもたげていた問題に言及する。

「……気が付かず、すまなかった」

 先日のことも、今日のことも。
 その想いで義勇はぼそぼそと謝罪の言葉を述べた。
 それからそっと彼女の手を放し、義勇は浴室を抜け後ろ手で戸を閉めた。

 なまえは一瞬の出来事に驚いてその場に立ち尽くす。

 水柱から立て続けに発せられたこちらを慮る言葉に、彼女はあっけにとられた。
 冷たい人だとばかり思っていたが、もしかすると本当の姿は違うのかもしれない、となまえの胸はほんの少しばかり温まるようだった。

沁みる2

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