沁みる
「はぁ……」

 誰もいないのをいいことになまえは大きなため息をついた。
 炊いた飯を握りながら、今日も一人で過ごすことになりそうだと彼女は憂いていた。

 義勇は初日に本人が告げたように、屋敷を出払っていることが多かった。
 数日留守にしてはある時ふと戻り、任務地が近いうちは留まるが、遠方に派遣されればまた数日はいないという生活だ。隊士の面倒を見てくれる藤の家紋の家に留まったり、警護と調査をかねて現地で過ごしたりするのだと、なまえは以前隠の女中仲間から教わった。

 なまえの支度の都合を考えてか、義勇が屋敷で寝起きする日は前日から当日の夜明け頃までに寛三郎が知らせを寄越してくれる。しかし玄関戸の周辺に寛三郎の穏やかな羽音が聞こえてくる気配もなく、いつもなら連絡が来る頃合いをとうに過ぎ朝日が昇り切ったのを見届け、なまえは少なくとも今日はまた一人であると自覚したのだった。

 土間から式台に腰かけ、なまえは無言で、不要になった握り飯を頬張った。もう一度、はぁと深いため息が漏れる。先日、水柱から注意を受けたことが彼女の心に大きくのしかかっていた。

 義勇様を怒らせてしまった。

 彼女にとって、例の出来事はそのように受け取られていた。

 助け導いてくれた鱗滝とは違い、義勇は気難しく厳しい雰囲気の人だとなまえには思われた。言葉数も極端に少なく、何を考えているのかよく分からない。何にも心許すことのない冷たい瞳と、人を近寄らせない態度が、なまえの中での「冷徹で厳しい人」という義勇への印象を強固なものにさせていた。
 
 義勇は鬼を狩ることのできる実力者だ。
 自分のような甘い人間とは違い、彼は日々命を賭す覚悟を決めている。それがあの鋭い眼差しを作っているに違いない。

 そう考えると、自分の覚悟のなんと甘いことか。こんな考えでよく鬼殺隊に入りたいなどのたまえたと、なまえは自身を恥じるような気持ちにすらなった。
 鬼殺隊に入りたいという無謀な願いにも真摯に向き合ってくれた鱗滝の親切さが際立つようで、彼女は今やたった一人頼れる存在である彼を思い出していた。

 鱗滝さんの元へ帰りたい。

 誰もいないとはいえ義勇の屋敷だ。覚悟を持ってやってきたはずだ。
 すんでのところで想いを口にすることはせず、なまえはかまどをじっと見つめながら、喉元まで上がりかけた言葉を噛んだ米と共に飲み込んだ。


 食事を済ませたあと、なまえは日課である仕事をこなした。
 義勇がいない時は洗濯はなく、食事の支度も最低限で済むが、いつ帰ってきても良いように準備は万端に整えておく必要がある。洗い替えは十分に確保しておき、ほつれたものがあれば縫い直す。食事も、少なくともすぐ食べられる握り飯は欠かさず用意しておき、必要がなくなれば自分でそれを食べた。

 大きく手がかかるのは掃除だ。
 住まいは人のいるいないに関わらず、時と共にほこりや汚れが勝手に蓄積する。
 廊下や道場の拭き上げ、台所の整理整頓、ほこりを落とし畳や玄関周りを掃く。門も水柱邸の格を落とさぬよう毎日ぴかぴかに磨いた。





 考え事に頭の中を支配されていたなまえは、いつもより遅く風呂掃除に取り掛かっていた。普段であれば義勇がすぐに使用できるよう早朝のうちから支度しておくが、今日は連絡がなく、悩みを抱えた彼女の動きが鈍かった為に遅くなってしまったのだ。

 掃除に時間がかかったのには、もうひとつ訳がある。

「っつ……!!」

 隠の女性達が時々来てくれるものの、ほとんどの日は一人で作業を行っている為、なまえの手は指先から甲に至るまであかぎれや湿疹に悩まされていた。
 特に水仕事は辛く、何かをしようとする度に激しく手肌に滲みる。
 風呂釜と浴室の床を磨くのに雑巾を絞ったところ、また貫くような痛みを感じ、なまえはぎゅっと身を縮こまらせた。

 見れば治りかけていたあかぎれの一部が再度深くひびわれてしまい、血がみるみる滲んできている。痛い。明日も、明後日も仕事はあるのに、こんな調子では手が持たない。

 ふと、なまえは同じことを嘆いていた母親のことを思い出した。こんなに大変な想いをして家の仕事をやっていたのかと思うと、かつての家族団欒がとても貴重で尊いものであったことを改めて思い知らされ、孤独な今との落差になまえの胸は締め付けられた。

 今や天涯孤独の身となってしまったなまえは、手がぼろぼろになろうとも、何とかここで食いしばらねば生活の目途が立たない状況だ。仇を討ちたくとも自分には家族を奪った鬼を倒すことができない。故に、生きてゆく中で彼女が目指すのは鬼殺隊を支えることである。
 そしてそんななまえに与えられた仕事は、水柱を支えることなのだ。

 しかし彼女が気持ちを込めてそう思えば思うほど、先日振り払われた感触、義勇から投げつけられた鋭い視線が脳裏を過り、身体が強張ってしまう。

 鬼を滅したい。仇を取りたい。水柱を支えたい。
 けれども手のあかぎれは痛く、義勇に拒絶された事実は重かった。

 鱗滝さんに会いたい。
 父や母に会いたい。
 何も知らなかった頃に戻りたい……。

 ひとたびそう考え出すと止まらなくなって、なまえの視界はみるみる歪んだ。ぽろりと涙が一粒こぼれてしまえば、堪える理由を見出せなくなる。

 汚れた手では拭うことも叶わないので、無心で風呂場を磨きあげながら、なまえは頬が濡れるのも構わずほろほろと泣き続けた。


 思った以上に事が早く済み、連絡なく義勇が屋敷へ戻ったのはちょうどその頃だった。

沁みる

PREVTOPNEXT
- ナノ -