悪夢
「姉ちゃんにだったら、喰われたって良かったのに!!」鬼狩りになってすぐの頃、義勇は少年を襲う一体の鬼を斬ったことがある。
涎の滴る牙を剥き出しにした眼前の脅威に怯えながら、それでも「姉ちゃん、姉ちゃん」と懸命に呼びかける少年に、きっと少し前まで彼にとって"姉"だったその鬼は襲い掛かった。
首を斬られ身体が崩壊しはじめた時、塵となりゆく鬼の娘に縋りついて、少年はそう叫んだ。
義勇は救いのない、虚しい光景を目にして、自身の立場を少年と置き換えて捉えそうになった。
しかし義勇の為すべきことは鬼の殲滅である。
悪戯に同情し、死者・被害者を増やす訳にはいかない。
「"それ"は既にお前の姉ではなかった」
その一言が、後に水柱となる彼が発する精一杯の優しさだった。
人は、鬼になった時点で例外なく自我を失う。鬼になった瞬間、死んだのと同じである。その肉体はもはや、滅するべき鬼でしかない。
そう考えねば、鬼狩りなど、到底。
■
――禰豆子は違うんだ
――人を喰ったりしない!!
雪道を進む義勇の脳裏には、今朝がた会った少年の姿が幾度となく蘇っていた。
屋敷に戻る頃には雪の勢いは弱まっていたが、積もった雪に覆われた真っ白な道すがらでは、吹雪の中で鬼の娘が兄を守るような動作をしていたことが鮮明に思い出された。
水柱は心を寄せすぎる。
この新しい朝に義勇の胸を占めていたのは、隊律違反と思しき行為をしたことよりも、炭焼きの一家が惨い目に遭うのを防げなかったことの方であった。
「義勇様!」
屋敷へ戻った義勇を見て、なまえは驚き、声を上げた。玄関を抜けた義勇は髪も身体もぐっしょりと濡れ、芯から冷え切っているのが聞かずとも見てとれた。
「急ぎ着替えを用意いたします!」
そう言うと、なまえは慌てて廊下の奥へと消えていった。
びしょ濡れになった羽織を脱ぐと、鮮やかな亀甲柄としとやかな葡萄色が義勇の目に飛び込んでくる。
反射的に逸らした視線の先、土間の下の方を見やれば、再び鬼の娘の威嚇した様子がそこに浮かび上がるようだった。
「姉ちゃんにだったら喰われたって良かったのに!!」
そう叫んだ、あの日の少年の叫びも。
さらには、身内を失った数多くの者たちの悲痛な声も、すすり泣く様も思い出された。
(飢餓状態で人を喰わぬ鬼を初めて見た)
お館様に報告せねばなるまい。その時自分の処遇がどうなるのか、そんなことは義勇にはどうでも良かった。彼の目的は、鬼を滅すること。その為に自身がすべきことをしていく。ただそれだけだからだ。
なまえが持ってきたタオルも、手ぬぐいも、着替えも。全てが温かく、義勇は罪悪感に飲み込まれそうになった。
自分は生きている。
過ちにより、生き長らえてしまったのだ。
「竹筒を……失くした」
「かしこまりました。予備がございますのでご用意いたします」
義勇の冷たく濁った瞳を恐れながら、なまえは静かに頷いたのだった。