16話
車の音が完全に聞こえなくなり、なまえの家の周りを静寂が包み込む。遠くで鳴く烏の声と薄暗い空が、急に現実味を帯びて感じられる。たった今起こった怒涛の出来事に、なまえはへなへなと地面へ膝をついて座り込んだ。
義勇がその様子に気が付き、後ろへ振り向る。
「立てるか?」
掛けられた声に、なまえは「腰が抜けて……」と力なく頭を振った。
義勇に差し出された手を掴み、彼女は何とか立ち上がることができた。
間もなく日が暮れるにあたり、ここに留まる訳にもいかない。二人は今日のところはまた、屋敷へ戻ることとした。
なまえは改めて、最終的に家を離れる心づもりで持ち物に抜けがないか確認する。辺りはほとんど暗闇に支配されつつあり、彼女に少しばかり焦りの色が滲む。
その様子に、義勇が口を開いた。
「抜けがあれば、また取りに来れば良い」
「……でも、」
「あいつはもう来んだろう。それに、ここへ来るときは必ず俺も同行するよ」
なまえは一度荷物をまとめ、家を離れる覚悟もしたつもりだった。
しかし焦らせることも急かすこともない義勇の穏やかな優しさに安堵を覚え、心から感謝した。
「もう不用意に手紙のやりとりなんていたしません」
義勇に会いたいが一心、そして無礼を働けないとやりとりを重ねてきたなまえだったが、思い出すのもおぞましい男の本性に身震いし、彼女は反省の弁を述べた。
■
坂道を上り、二人が土手を歩く頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。月明りと、星のきらめく夜の始まりである。
義勇にしてみれば、目も冴える頃。なまえにとっては、着物で出歩くことにあまり慣れていない時間でもある。
衝撃の余韻は未だ衰えず、二人はどちらとも言葉を発することなく進んでいた。
月に照らされた薄明るい道に、義勇となまえの足音と微かな虫の声が響く。
「……勝手なことを言ってすまなかった」
唐突に、義勇が沈黙を破った。
なまえはうろたえたまま、妙に明るく返事をする。
「う、ううん……!」
再び二人の間に沈黙が訪れる。男の卑劣な本性、自分の行く末が変化したこと、義勇が先ほど口にした言葉の数々……どれも重大な出来事すぎて、理解が追い付かない。なまえは静かながら気が動転していた。
「さっきの言葉のことだが、」
「あ、ああ……! はい! 大丈夫です! あの方を追っ払う為にうまいこと言ってくれたんだって、ちゃんと分かってますから!!」
義勇が話すのを遮って、なまえがぺらぺらと言葉を並べる。
本気ではないと口にされたら傷ついてしまいそうだし、まさか誤解して浮足立ってるなどとも思われたくないし、自分の方から物分かり良く話せば義勇の手間も省けるだろうとなまえには思われた。
なまえの言葉を受け、義勇は少しばかり視線を落とす。
「俺は……長くは生きられない」
つまり、なまえを妻に娶りたいなど、勝手なことは言えぬのだ。それが義勇の思うところである。
なまえも柱の面々に痣が出現したこと、それが何を意味するかは知っている。
義勇の言葉にはっとして、なまえは彼の横顔を覗き見た。しかしそれも、暗くて、あまりよく分からなかった。
「それに、腕のことも事実だ」
「別に困りません」
拗ねるような口調で、義勇の言葉へ即座になまえが重ねる。男に、あんな卑劣な男に、義勇を侮辱されたことがなまえには納得できない。
「実際不便なことも多い」
「義勇さん器用だから大丈夫」
「なまえの手を借りたことも多かったろう」
「私なんて寝床を借りてます」
言い負かす相手は義勇ではないのに、悔しくて悔しくてなまえの言葉が止まらない。
何度振り切っても先ほどの暴言が蘇るようで、我慢ならずなまえは足を止めてしまった。止まった足音に、義勇が後ろを振り返る。
「ぎ、義勇は、立派な人だよ。私にとっては、誰よりも尊い人。沢山の人の為に命を賭して戦ってきた。今こうして、夜を歩けるのはあなたのお陰です! あ……痣も腕も……困ることなんて、何もないもの……!」
地面を見つめたまま言葉を絞りだし、なまえは唇をぎゅっと結ぶ。
困ることが何もないというのは言い過ぎだと思いながら、義勇は俯いて震える彼女を見た。頭の横から飛び出して見えるかんざしの飾り玉に、月の光が反射している。
今のこの胸の満ちる想いは、なまえが姉のかんざしと想いを大切に繋いでいてくれたことを知った、あの時と同じようだなと義勇は思った。
あれだけの被害を受けて、なお生き残った命と身体だ。
義勇自身、これまでのことも、これからのことも、悲観に費やすのはやめようと思っている。
なまえも、そのことは十分に理解している。
その上で、彼女は今精一杯打ち消しているのだ。
あの男の放った汚い言葉を。
義勇がするであろう、なまえに対する遠慮を。
「義勇さんには、何の不都合もないもの!」
「義勇さんは、絶対幸せになりますっ」
今にも泣きだしそうな顔で、なまえが重ねて続ける。
懸命に言葉を紡ぎだす姿に、義勇はなまえを引き寄せたいと思う。この腕で、抱き締められたならと思う。それでも今彼女が感じているだろう混乱を思えば、余計なことはすまいと手など到底出せはしない。
虫の声が小さく響き、風のそよぐ夜。草の葉の擦れる音が優しく重なる。
「ぎ、義勇さんは、私の一番大切な人。昔も今も変わりません。ずっと、ずっとあなたの幸せを願ってます!」
「……っ」
息巻いたなまえから、急に思ってもみない言葉が飛び出し、義勇は一瞬うろたえた。愛の言葉のように聞こえたが、そう受け取る自信もなかった。
「私……。私は、夢みたいだった……。例え偽りでも、義勇さんが私をもらってくれるって言ってくれて……嬉しかった」
義勇の困惑は続く。なまえがこのように口走るとは思いもしなかったのだ。
「私、もう嫁の貰い手など一生なくてもいい」
これでは抑えようとする想いも溢れてしまう。
「あの言葉だけで、生きてゆけます」
「なまえ、」
堪らず、義勇はなまえの右手を取った。
彼女の反対側の手から、鞄がどさりと地面へ落ちる。
肌が触れると、通じ合ったような気持ちになる。空いた左手を握られた手に添え、義勇を真っすぐ見つめたなまえは、思い切って口にした。
「どうか許される間、義勇さんのお傍に置いてもらえませんか。小間使いで構わないから」
訴えかけるなまえの瞳に、月明りが揺れている。
義勇の脳裏に今日の出来事が蘇った。
桜に喜ぶなまえの横顔。共に過ごした、温もりに溢れた一日。もう触れることすら叶わぬだろうと思った彼女の手を、今、自分が握っていること。
「……小間使いなどしなくていい」
揺れる義勇にも、揺るがないことがある。
どうしたってなまえの手を、離したくないのだ。
限られた時間かもしれない。
それでも、託された人生を懸命に生き、繋いでゆく。
その時隣に、彼女がいてくれたなら。
義勇は自身の方へ、なまえの手を引き寄せる。おずおずと、一歩、二歩進み義勇のごく目の前に収まったなまえは、下げた視線で彼のシャツのボタンを見つめた。
「俺と共に生きて欲しい」
突然の申し出を咀嚼するのに、僅かな間が開く。
それから「えっ」と声を上げたなまえは義勇を見上げ、彼の顔を見るなりほろほろととめどなく泣き出した。
あまりに嬉しかったからであることは言うまでもないが、義勇はまた自分が言葉選びを間違えたかと内心に急激な焦りを覚える。
「む、無理にとは言わない」
慌てて付け加えた言葉に、なまえが勢い良く首を振る。
「是非! 是非、ご一緒させてください!」
見上げて言ったなまえの顔が、月明りに照らされて義勇にはよく見えた。
暗くても分かる高揚した様子、願い叶った彼女の目尻には溢れる幸福が煌めいていた。
はぁ、と大きく安堵のため息をついた義勇は、なまえの手を握ったままの手の甲で、彼女の濡れた頬を拭った。
こうして、晴れて義勇となまえは、互いの想いを通わせ合うことができたのだった。
■
「お、じゃまいたします」
意識しすぎて動きの固くなったなまえが敷居を跨ぐのを見て、義勇は思わず微笑んだ。
「今日は疲れたろうから、一旦休んだ方がいい」
「それは私の台詞です! 急いでお湯を沸かしてきます!」
「その恰好でやるのか?」
義勇に問われたなまえは、一呼吸置き、ぱちくりと瞬きする。それから下を向いて自分の姿を確認した後、茶目っ気を含んで少しだけ彼に甘えた。
「……お着物汚れたら困る!」
そしてなまえはまず大切な着物を脱ぎに、座敷へ向かった。
彼女は廊下を進みながら、もう「借りている」と枕詞をつけなくてもいいのかな等と考え、熱くなる頬を両手で包み込んだ。人には見せられないくらい、嬉しくて幸せで、頬が緩んでしまって仕方がない。
一方の義勇は戸締りをした後、なまえが玄関に置き忘れた鞄を見つけ、彼女の後を追いかけた。
義勇は廊下を進みながら、これからはこの荷物も、なまえも、傍で同じ時を過ごしていくのだろうか等と考え、胸が温かくなった。姉や錆兎にも、報告に行かねばなるまい。
「あれ?義勇さん?」
なまえが借りていた座敷の襖を開ける直前、義勇が彼女のいる通路に辿り着いた。
義勇の手元を見て、自身の忘れ物に気が付いたなまえが恐縮して駆け寄る。
鞄を受け渡すと、ふわふわとした心地の二人はどちらからともなく束の間見つめ合い、しかしどうしたら良いものか分からなくなって互いにぎこちなく視線を逸らした。
それから二人は連れ立って、なまえの使用している座敷の襖を開けた。
■
さて、襖の向こうには、義勇が振り回したなまえの着物がぐちゃぐちゃに広がっており、この後二人は大いに気まずい想いをすることになるのだが、
それはまた、別のお話。
初々しい二人の生活は、まだまだ始まったばかりである。