15話
 なまえは薄暗くなってきた室内で、急ぎ最後の荷物をまとめていた。荒らされたまま放置された家の中には金目のものは少ないにしろ、もう戻りはしないとなると、必要なものはそれなりにある。

 件の男はそれを手伝うでもなく、見張るようにして土間の式台に腰掛けていた。男としては彼女が逃げさえしなければそれで良かった。妻を娶り、一家の主となれば立派な大黒柱として世間での信用度が上がる。彼にはこれまでに候補となる女性は沢山いたが、かつて見たなまえを気に入っていたことに加え、家同士の繋がりが生じるのを面倒に思うがゆえ、しがらみの少ないなまえを妻の座に収まらせたかったのである。

 幼い頃から祖母と暮らし、残りは鬼殺隊で過ごしてきたなまえは、家庭の在り方というものをよく知らず、このように嫁ぐのが当然であるのかと思っていた。祖母は確かに彼女の結婚を強く望んだが、このような男に目をつけられるとは思いもしなかったに違いない。

「できました」

 土間から届くため息や視線に急かされながら少ない荷物を手提げ鞄へ詰めたなまえは、男に向き直りそう言って少し口角を上げた。この男と生きてゆくのだから、愛想を良くして気に入られねばなるまい。
 男は初めてなまえの方から笑いかけられて、機嫌を良くした。





 義勇がなまえの家に辿り着いた時、二人はちょうど荷物を持って玄関を出てきたところだった。

 車のドアを開けようと視線を上げた男が、義勇に気が付き動きを止めた。後ろで、鞄を下げたなまえが驚き、立ち尽くしている。

 義勇は物音を立てず、一歩一歩車へ静かに近付いていく。
 男はなまえの前に手を出し、今度の機会には彼女を連れて行かせまいと二人の間を阻んだ。

「何をしに来た」

 男は義勇を睨みつけ、高圧的な物言いをする。彼の記憶は幼い頃のままで止まっていた。
 彼にとって義勇は、姉に可愛がられていた小さな弟である。弱く、おっとりとしていて、どことなく自由なところが気に食わなかった。医師の家を継ぐ重圧も知らず、のうのうと世話になりに来るのかと思えば、途中で逃げ出したという。
 まもなく医師の家を継ぎ、富も名声も手に入れんばかりとする男には、義勇の存在など蔑ろにしても差し支えのない、取るに足らないもののように思えた。

「なまえは私の許嫁だ」
「それは、お前が勝手に言っていることだろう」

 しかし引く様子のない義勇の言動を受け、男は苛々した様子を見せ始める。

「何を言っている?勝手なことを」
「なまえはそんな話は心当たりがないと言っていた。彼女は俺がもらう」
「あぁ!?」

 義勇の突然の宣言に、男が語調を荒げる。
 身動きできないでいるなまえの前で、次第に男の本性が現れ出す。

「やめた方がいい。この女は身寄りもなく、学さえない行き遅れだぞ」
「そんな女を欲しがるとは不思議だな」
「欲しがってなどいない。施しと思い、もらってやるだけだ! どのように生き延びたか知らぬが、この女を連れて帰れば食い扶持が増えてお前が困るだけだぞ!」
「関係ない。喜んで引き受ける」

 こんなにもすらすらと会話できたのかとなまえが呆気にとられるほど、義勇が言葉を返していく。男の方は顔を歪め、負けじを主張を重ねた。

「いや、いや。この女は俺がやった数々の贈答品を袴以外全て奪われたんだ。あれを用意するのにいくら費やしたか……無駄になった分を返してもらわねば気が済まん。返そうったってこの家の中には金になるものは何も残っていない」

 そう男が口走った時だ。なまえには彼の荒さを増す口調よりも、気になることが生じた。男は一度も部屋の中へは入っていないはずなのに、奪われたものの状況をどうして細かに知っているのか。

「……何故、そのことを?」

 なまえの震える呟きを、男は無視する。

「お前が差し向けたのだろう」

 義勇に指摘された男は、ふん、と鼻息を鳴らした。

 なまえが素直に応じなければ、困窮させた後に手を差し伸べれば良い。男は当初からそのように考えていた。まさか、義勇にそれを取って代わられるとは想定外であった。

 なまえの一番の宝は守り切れたとはいっても、彼女が使用していた着物や手鏡、ささやかな化粧品、代々使ってきた鍋や食器など、沢山の愛着のある品々は既に失われている。
 男の卑劣さに、彼の後ろ姿を見るなまえの目が恐怖と軽蔑に歪んだ。

「黙れ!! そもそも腕のないお前などに偉そうな口を叩かれる筋合いはない!」

 頭に血が上った男は、標的をなまえから義勇に変える。

「誰かの世話にならねば生きてゆけまい。ろくな仕事もないだろう。卑しい身で、よくこの俺に対等な口が聞ける。お前など、」
「やめてください!!」

 地面に荷物を投げ出したなまえが、耐え切れず男の腕を掴み続きを掻き消す。

「義勇は立派な人です。あなたよりずっと!! 彼を侮辱しないで!!」
「……お前がそいつに執心なのは知っている」

 男は身を乗り出したなまえを冷たい横目で睨みつけて言った。

「最初からそれ目的でうちに来たんだろう?」

 図星を突かれ、些かなまえが怯む。確かに彼女は最初、義勇に会いたい一心でこの男の家を訪ねたのだ。

「あいつも相続した金ならあるはずだからな。財産目当てにわざわざ遠縁のこちらにまであざとく目をつけてくるとは、卑しい根性には恐れ入る」

 しかし男は見当違いな誤解をしていた。彼は的外れな推測を述べながら、馬鹿にするような視線をなまえに投げ、饒舌に続けた。

「その面と体を楽しめるならと目を瞑ってやっていたのに、生意気な口を聞くなっ……」

 男が腕を振り上げ、なまえが叩かれるのを覚悟した瞬間だった。

 衝撃音と共に土埃が舞い起こる。

 なまえが瞑った目を開くと、彼女の視界は義勇の背中を捉えていた。


 男はというと、車の先ほどまで身を飛ばされ、受け身もままならない姿勢で地面に倒れこんでいた。
 体のあちこちを痛そうにしながら上半身を上げ、自分のいる場所を把握すると何故こうなったのか疑問に思うように焦った顔をする。口元を拭った彼は、手に滲む血に驚愕の表情を浮かべた。

「なまえはそのような女ではない」

 低く重い怒りを滲ませた声が、その場の空気を揺らす。
 静かに言い切った義勇が一歩踏み出し、流麗な姿勢と身のこなしで、左手に持った木刀をすらりと男へ向けた。

「いいか。すぐにでもなまえを俺の妻として迎える。そうなれば不義を持ち掛ける者としてお前を警察へ突き出すこともできよう」

 差し出した木刀の先をぴたりと止めたまま、義勇が男に言い放つ。

「なまえには金輪際近寄るな。次は木刀では済まない」

 静寂の空間を支配する義勇の圧に、男は言葉を返す術を失った。

 苦虫を噛みつぶしたような不快と慄きの入り混じった表情で立ち上がった男は、足を引きずってよろよろと車へ近づく。彼はなまえを見ようとしたが、義勇の視線から逃れられないまま舌打ちをし、観念したように車へと乗り込んだ。

 エンジン音が鳴り響く中に紛れて、ようやく男が口を開いた。

「俺はお前らとは生きる世界が違う。二度と関わってくれるな」

 彼は最後にそうのたまい、逃げるように車を発進させたのだった。

15話

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