Hug
 再会を果たし、怒涛の展開を経て共に生きゆくことを決意した義勇となまえは、悩むこともなくなって気持ちのいい朝を迎えていた。

 ……訳でもなく。

 不器用な二人は、同じようなことを考えては身を焦がしていた。


 想いを伝えあったのは良いものの、夜の道を荷物を持ちながら歩いていて互いに必死だったのだ。落ち着いてみればこそ、そう思いつくものである。


 あの時、抱きしめられたなら良かったのに、と。





「おはようございます」
「……おはよう」

 朝早く、座敷で顔を合わせた義勇となまえはそう言ってぎこちない挨拶を交わした。

「しっかり休めただろうか」
「うん、お陰様で」

 会話してみると、いつもの距離感が戻ってくるようだ。

「義勇さんがあの人を追っ払ってくれたから、安心して……そりゃもうぐっすり!」

 なまえが調子を取り戻し、明るい笑顔に白い歯を覗かせる。義勇はその様子を見て、昨晩のやりとりが誠のものだったことを実感し、安堵を覚えた。

 しかし二人の悩みは依然として解決しそうにはなかった。


 ――抱きしめるには、急すぎる。


「えっと、あの、食事の支度をしてきますっ」
「俺もやるよ」

 彼女を気遣った義勇が申し出て、なまえが「本当?」と嬉しそうにはにかむ。
 思案するふりをしてみせたなまえもまた、義勇を気遣った。

「じゃあ、義勇さんは座敷でゆっくり寛ぐの担当ね」

 そう言って、彼女は機嫌よく足を進める。義勇は残り香を追ってなまえの後ろ姿を捉えた。

 彼女の機嫌の良い頬を撫でたり、艶のある髪に触れたり、つまりもっと近付きたいのだが、義勇にはうまい方法が見つからなかった。昨日には頭を撫で、手を繋いで、涙まで拭ったというのに、どうした訳か、今日はさっぱり方法が思いつかないのだ。
 




 寛いでいていいと言われてもそうはしないのが義勇だ。落ち着かない義勇は、まだ用意の必要はないが薪を割りに裏庭へ向かった。
 空は快晴で、もやもやとしたものを吹き飛ばすような青空だ。汗を流すと、雑念がとんでいくようである。


 さて、食事の支度を終えたなまえが裏庭へ義勇を呼びに行くと、懸命に薪割りをする彼の背中が目に入った。休み休み、それでも力強く作業する背中は逞しい。剣士として動き回っていた時の後ろ姿や、昨日身を挺して庇ってくれたこと、あの時義勇の口から飛び出した言葉が思い起こされて彼女の頬が熱を帯びる。

 今見ている袴の後ろ姿は、鬼殺隊時代には知り得なかった、水柱ではない冨岡義勇という人の日常の姿なのだ。そう思うと、何か特別な瞬間に恵まれているようで、なまえはドキドキと高鳴る鼓動を感じた。

 あの頼もしい背中に触れたら、どんなに温かいのだろう。

 ついそんなことを考えて、なまえははたと頭を振った。
 自分から触れたいなど、はしたないと思われてしまったら大変だ。

「できました」
「?……ああ、ありがとう」

 なまえの声に義勇が振り返る。彼は道具を下げ、作業に区切りをつけて腕で汗を拭った。雑念を吹き飛ばそうと心がけたなまえだったが、義勇の仕草から目を離すことはできず、目標を達成することは叶わなかった。





 その日はなまえの荷物の整理をするのに大分時間を割いた。
 使っていない箪笥や箱を出してきて整頓すると、なまえの存在がごく自然に暮らしへ馴染んでいくことが実感され、二人はともに嬉しいような気恥しいようなそわそわとした心地になった。

「ここに置いてもいいかな?」
「好きにしていい」
「そんな、勝手することはできないわ」
「ここは名前の家なのだから問題ない」

 流れに沿って自然と出た言葉にも意識が募り、義勇もなまえも黙り込む。沈黙すればするほど、それが際立つようだ。

「う……うん!ありがとうございます」

 なまえが振り絞ると、義勇は顔を逸らし座敷を後にした。





 そんな調子で夕飯を共にしたものだから、二人ともろくに味わうこともせず飲み込むように食べることになった。

 互いに相手を想っていると分かったが、だからといって昨日までと何かが変わるかと言えば何も変わらない。昨日も、それ以前からも、想いあっていたのだから当然である。

 不慣れな義勇となまえの、探り合いのような食事が終わる。なまえが箱膳を下げに台所へ向かい、義勇の方も座っているのは何となく忍びなく彼女の後を追う。

「……何か、やろうか」

 問われたなまえは、親切な申し出に朝と同様にはにかんだが、これと言って頼みたいこともなく、ただ寛いでいて、と伝えるに留まった。

 まる一日、膠着していた状況を動かしたのは義勇の方だった。

「ならばここで見てるよ」

 彼としては何気ない本音に違いなかった。座敷に戻るより、ここで彼女のてきぱきとした動きを見ている方が有意義であると思ったまでで他意はなかった。突っ掛けに足を差し込んだ義勇は、そのまま式台に腰掛けたが、「そんなところでは寛げないでしょう?」となまえに言われ、続けて口が緩んだ。

「なまえを見ていれば、寛げる」

 その途端、なまえが小さく「えっ」と声をあげ、義勇はしまったと思った。意識せず出た言葉だったが、いかんせん直球すぎたのではないか。

 なまえがどのような反応を示すか義勇が焦る先で、彼女はといえば違う意味で焦っていた。自身の背後に義勇の視線があるのかと思うと、些細な動きまで気になって体に力が入ってしまう。鬼殺隊の解散後、運動量が減り体つきが変化したような気がしていたなまえとしては、腰周りを見られてはいないかと心地が悪く、動きが固いものになっていく。

 そしてなまえが小さく戸惑いの声をあげたきり、黙り込んで振り向きもしないものだから、義勇は自身の発言が彼女をそうさせたことにさらに戸惑った。確かに、じっと見られていると思ったら作業もしにくいはずである。
 「ただそこになまえがいることを実感できるだけで、心が温かくなり落ち着く」という趣旨だったのだが、義勇は何か失敗した気がしてならなかった。
 その上彼女が、陶器をぶつけて音を立てたり、箸を落としたりと、普段の要領の良さを完全に失ってしまったものだから、危なっかしくて手を出したい衝動にも駆られた。

 義勇は導かれるように一歩二歩なまえの背後へ近づく。しかし何と切り出せば良いものか、言葉に詰まる。こんな調子で共に暮らしていくことができるだろうか、と悩ましく思う義勇の前で、なまえは今度、背伸びをして、乾燥させていた干しざるを棚の上に乗せようとした。

 だが背伸びしても一歩及ばない高さに、なまえはざるを棚の上にうまく乗せきることができなかった。傾いて落ちてきそうなざるを、つま先立ちしたなまえが指先で押さえる。不安定にぐらついたざるが隣に置いてある一回り大きいざるに当たり、それを揺らした。
 どちらも落ちてきそうな様子を見て、義勇は咄嗟に彼女の背後から手を伸ばした。難なく届いた義勇の左手がざるを押し込み、何も落とすことなく無事に片付けが済んだ。

 ほっとしたなまえが「ありがとう!」と左へ振り向く。しかし振り向いたなまえの目に飛び込んだのは、義勇の顎先や首筋だった。過去にない程間近にいる義勇に圧倒され、包み込むようなその姿勢に慌てた彼女はすぐに顔を前に戻す。

「……危なかった」
「ぎ、義勇さんが見てるって言うから緊張しちゃって」
「ごめん」
「ううん。嬉しいは嬉し……かったん、だけど」

 気を悪くした訳ではないと知り、義勇は安堵した。ほっとするとなお、間近に見る彼女の赤らめた頬も、頻繁に上下する睫毛も、特別に愛おしむことを許されたのか確かめたい衝動に駆られ、義勇は近づいた身体を離しがたく思った。
 流しとの間に挟まれたなまえが、なかなか下がる様子を見せない義勇にうろたえ「あの……」と小さく声を漏らす。

「なまえ」

 なまえの耳元に、義勇の落ち着いた声が響く。

「はっ……はい?」

 なまえは前を向いたまま、上ずった声を出した。

「……触れても、いいだろうか」

 機を逃さずに、義勇が告げる。

 物音のない静かな夜。大きな屋敷の中には二人だけ。ばくばくと高鳴っている心音が聞こえてしまうのではないかというほどだ。なまえは声も出せず、ただこくこくと頷いてみせた。

 なまえの身体に義勇の左腕がそっと伸ばされる。おずおずと、向き合う形になるようになまえも義勇の方へ身体を向けた。義勇の手のひらが背中から肩の辺りに添えられると、腕に優しく力が入り、なまえの身体が義勇の胸に引き寄せられる。緊張して行き先を失っていたなまえの両の手が、義勇に包み込まれた腕の中で、彼の胸にぴたりと貼り付いた。

 触れ合う場所が互いの熱を重ね、温度を上げていく。相手の熱が自身に移るような気がして、それを失うまいと身じろぎ一つできない。胸の内側で、鼓動だけが激しく主張している。

 昨晩からではなくて、ずっとこうしたかったのだと、二人は同じように思った。好いている人に触れるというのはこんなにも心地よいものなのかと、時を忘れてしまいそうなほどだ。

「あのっ、あのね……」

 少し間を置いてから、決心したように急になまえが顔を上げる。こもった熱が少しばかり失われ、それすらも惜しいように義勇は思った。義勇が覗くと、真っ赤な顔をしたなまえは上目に彼を見上げ、遠慮がちに、しかし大胆なことを告げた。

「これからは聞かなくても、いつでも……こうして欲しいです」

 何を言うかと思えば、心臓を鷲掴みにする一言に今度は義勇が言葉に詰まった。水の呼吸とは違う心拍の上がり方だ。妙な興奮を抑える為、鼓動の特徴を分析することで義勇は冷静になろうとした。

「……わかった」

 自身を落ち着けた義勇がこくりと頷き、遅れて相槌を打つ。ほっとしたなまえが視線を下げる。

「私も、手、いい?」
「ああ」

 確認したなまえが、そうっと手を動かして、義勇の背中へと腕を回す。彼女が腕に優しく力を込めると、二人の間を隔てるものは何もなくなり、まるで元がひとつであったみたいにどこもかしこもぴたりと合わさった。

 なまえが頬を義勇の胸に寄せ、心地よさそうに呟く。

「わ……義勇だ」

 義勇は素直ななまえの言葉を受けて、自分も同じように(ここにいるのはなまえだ)と静かな実感を得た。"こんな調子で"と二の足を踏みかけた少し前の悩みがあっという間に消えていく。頬を寄せるなまえに、胸の音が聞こえてしまっても構わないと思った。

 義勇は無意識のうちに顔を近づけ、なまえの髪へ小さな口づけを落としていた。

Hug

PREVTOPNEXT
- ナノ -