なめるな、きけん。
「戻るぞ」
「どこに?」

 縞の羽織の埃をはたき弟子へ声をかけた蛇柱・伊黒小芭内は、彼女の返事を耳にして口の聞き方に眉を顰めた。

「なまえ……どういうつもりだ」
「へ?」
「……どうした」
「おこってる?」

 違和感に導かれた小芭内が彼女を振り返る。正面から後輩を捉えた蛇柱は、思わずため息をついて額を抑えた。

 いつも行動を共にしているなまえが、子どものような背格好になっている。それどころか口調から察するに中身も普段の彼女とは別人のようだ。

 つい今しがた、小芭内となまえの二人は下弦の鬼を討伐したところだ。それが何か関係しているだろうことは、柱である小芭内にとって推測に容易い。問題は、この人格や身体が他者なのか、本人なのかである。

 小芭内は上からじとっと彼女を睨め付け、問いかけた。

「おい、名を名乗れ」

 しかし目の前の小さな子どもは、名乗ることはなく同じ文言を繰り返す。

「おこってるの?」

 小芭内はそれを相手にせず再度問いかけた。まず目の前にいる者の素性をはっきりさせなければならない。

「いいから名を名乗れ」
「おこってる!」
「怒ってない」
「でもおこってる!」

 しかし子どもの方も頑として譲ろうとしない。その上、彼女が次第に目を潤ませ、唇をぎゅっと結ぶものだから蛇柱は困惑した。再度深く大きなため息をついた小芭内は、渋々腰を落とした。

「怒ってない。君の名前を言えるだろうか」
「……」

 その場に、しばしの沈黙が流れる。幼くなったなまえの顔立ち。そこにのせられた二つの目が、じいいと小芭内を上目で見つめる。
 少しした後に彼女は「なまえ」と小さく呟いた。

 気配からして鬼ではないと察しはついていたが、この様子からして、なまえが心身ともに幼くなったと考えるのが妥当だろうと、小芭内の推測は確信に変わる。血鬼術にかかったのか、この馬鹿。そう口にしてしまいたい気持ちはやまやまだったが、小芭内は堪えた。

 どうやら今のなまえは何も分からない幼な子の状態らしく、小さな両手足を内側に向け、不安そうにもじもじと立っている。下まつげに泣きかけた時の涙を光らせ、黒目がちの瞳で警戒しながら一心に自分を見つめてくる姿に、邪険にするのは良くないと判断せざるを得なかったのだ。

 ふっくらと丸い頬の柔らかな様子に、不覚にも愛らしさを感じ、蛇柱はばつが悪くなって目を逸らす。煉獄や甘露寺、竈門炭治郎が弟や妹を想うのはこういう気持ちなのだろうか、と密やかに思い馳せつつ、小芭内はなまえに指示を出した。

「一旦屋敷に戻ることにする」

 しかし小芭内の発言を受けたなまえは、さっと首を振って抵抗してみせた。

「知らない人についていっちゃいけないもん」

 なまえが譲らない口調で言うので、小芭内はじわじわと苛立ちが募るのを感じた。
 元はと言えばなまえの油断が引き起こした事態であるというのに、何故自分が人攫いのような言われようをするのか。小芭内のこめかみにうっすらと青筋が浮かぶ。

「ならばここに一人で残るか?」
「ここ、どこ?」
「言ってもお前には分からない。ついて来ないのならここにいればいい。勝手にしろ」

 彼女の所為にしてしまうのは簡単だ。

 しかし蛇柱にとって、これは単純な後輩の失敗ではなかった。
 柱の自分が傍にいながらなまえが血鬼術にかかったのは、後輩を負傷させたことと同義である。もし術が命に関わるようなものだったなら?大怪我に繋がっていたなら?
 自身の至らなさを痛感させられるようで、幼く変貌したなまえを、小芭内は苦々しく見つめる。

 一方、目の前に佇んでいるのは何も分からぬ小さな子どもである。小芭内の手厳しい言葉を受け、なまえの目はみるみるうちに涙でいっぱいになった。眉が限界まで下がり、歪んだ口元は閉じていられなくなって小さな嗚咽が漏れ始める。

 まだ薄暗い早朝。鬼が潜んでいた崩れた空き家のある敷地内。縞の羽織の男が連れる幼い女児が泣いている……これではまるで人攫いそのものである。

「なまえ、泣くな」
「ひっ……、ひくっ……!」

 揺れる肩を見て、小芭内の表情に焦りの色が増していく。

「こ、声を出すな」
「ひぐっ……う……ぅえええーーーん!!!」

 薄暗い街角に一瞬なまえの泣き声が響き渡り、慣れぬ小芭内は咄嗟に彼女の口元を塞いだ。なまえはもごもごと抵抗し、顔を赤くしながら必死に捲し立てる。

「えらそうな、おこりんぼ!」
「こわがらせの、めいれい屋!」

 語彙の限りを尽くした幼い罵詈雑言がその場に飛び交う。彼女の言葉を受け、小芭内はなまえが何に憤っているのかを理解した。蛇柱としては一刻も早く、彼女を静かにさせたかった。

「悪かった」「俺が、悪かった」

 誠心誠意を装い謝罪の言葉を述べると、ひとまずはなまえが大人しくなる。
 いよいよ我慢ならずチッと舌打ちをしたが、途端に彼女が再び眉をしかめ憤りを募らせた様子になった為、小芭内はこの攻防を収束する覚悟を決めた。

 周囲に注意を配り、隠や援護が来る気配がないことを十分に確認した小芭内は、満を持して提案を持ち掛けた。

「飴を買ってやろう」
「あめ!!」

 貴重な甘味への誘惑は、幼な子へ効果てきめんである。たった一言であっさり警戒を解くなまえに苛立ちつつ、やはりこのまま彼女を放置する訳にはいかないことを小芭内は実感したのだった。





 朝日も昇り人の増えた柳通りを、小芭内は仕方なしに進んでいた。刻一刻と彼の屋敷に近づいてはいるのだが、そんなことは知らぬなまえは上機嫌に鼻歌を歌っている。
 気に入りの飴職人が屋台を出す辺りに見当をつけ、蛇柱は周囲を見回す。その時だ。彼は非常に素晴らしい気配を感じ取った。

 導かれるように振り向くと、そこには小芭内が恋慕う甘露寺蜜璃が立っていた。肩を叩こうとしていたのか、蜜璃が挙げかけた手を可憐にすぼめ、指先を唇に沿わせうろたえた様子になったので、小芭内は振り向かずに待てば良かったと些か後悔した。

「伊黒さん! 任務帰りかなと思ったんだけど……ち、違ったかな?」

 蛇柱にすっかり懐いた様子のなまえを見つけ、蜜璃が焦ったような顔をする。下方を確認する蜜璃の視線を辿り、あらぬ誤解を招かぬよう小芭内は急ぎ弁明した。

「……なまえだ。血鬼術にあてられたらしい」
「えっ! なまえちゃんが……?」

 蜜璃がまじまじとなまえを覗き込む。その視線に気が付いたなまえは、遠慮のない声量で恋柱を褒めたたえた。

「かーわーいーいーーー!!!」

 立ち止まったなまえは両手でこぶしをつくり、首を突き出すような姿勢になって、蜜璃を熱心に見上げる。そして尊敬と敬愛の気持ちを隠すことなく、迷わず蜜璃に向かって抱っこをせがんだ。

「あらーー!! 可愛いわねえ!」

 蜜璃は求められるままになまえを抱き上げ、にっこりと笑いかける。なまえは目を輝かせ、蜜璃の肩にぴとりと頬を寄せ甘えている。羨ましいが半分、恨めしいが半分。小芭内は彼女にべたべたと触れる後輩を絶妙な気持ちで眺めた。

 さらに蜜璃の胸に抱かれたなまえは、編まれた彼女の髪の毛を不躾に手に取る。

「お姉ちゃんの髪の毛、宝物みたい! きれ〜い!」
「宝物? えへへ……ありがとう!」

 「ぎゅっとしちゃうぞぉ〜!」と付け加え、蜜璃がなまえを抱きしめて揺らすと、なまえはけたけたと声を上げて笑った。

 出会ってすぐに幼な子を笑わせることのできる蜜璃。その尊い姿を、小芭内は眩しい気持ちで見つめた。彼にとって、慣れた手つきで子どもを抱き上げる仕草も、上手にあやすことのできる朗らかさも、髪を褒められ照れている様子も、最上級に愛おしい。

 密かな楽しみの場を明かしたくなかった小芭内は、急な想い人の登場に、喜んで飴職人を探した。





 「伊黒さん見て! なまえちゃん、手が動いちゃってるわ!」

 「可愛いわねぇ!」と口にしながら前方を夢中で見つめる蜜璃を、小芭内はなまえの確認もそぞろに見つめた。

 探していた飴職人の屋台はすぐに見つかった。
 職人が細工するのを、他の子どもに混ざりなまえが夢中になって見つめ静かにしているので、その間小芭内と蜜璃は近くにあった長椅子に掛けながら待った。

 熟練の職人が和鋏で軽快に鳥や犬を造形していく。幼いなまえはそれを熱心に見つめ続ける。時折彼女の身体は、小さな飴職人よろしく手元をこちょこちょと動かした。こうして、戦いに明け暮れる三名は、束の間の穏やかなひと時を各々過ごした。

 少しして、なまえが張り切って二人の元へ駆けてきた。先端に鳥を模した飴細工が付いた棒と、何の細工も施されていない棒を複数持っている。

「これ、作ってもらった!」
「まあ! 良かったわねぇ!」

 蜜璃が子どもを喜ばせるような大きな反応を見せ、なまえは顔を嬉しそうに綻ばせた。

「これは、食べる用にって!」

 そう言ってなまえが差し出したのは、まだ加工前の棒付き飴だった。熱心に見つめるなまえに少しばかり分けてくれたらしい。顔を上げた小芭内は飴職人と目が合い、会釈を交わした。

 機嫌のいいなまえは蜜璃と小芭内に棒つき飴を手渡し、自身も二人の間に収まった。そこで三人はしばし、のんびり棒つき飴を舐めた。





 数分の沈黙が続いた後、なまえが自然な風に言った。

「家族仲良し!」

 それを耳にした左右の二人は、急な発言にむせ返り互いに顔を伏せた。思わぬなまえの言葉が何気なく大きく胸の内に入り込み、小芭内と蜜璃はそれぞれに照れてうろたえる。

(今俺は、甘露寺の夫に見えるのか……?)

(わわわ私が、伊黒さんのお嫁さん……?)

 視線を下げている二人は、視界の端に映る互いの様子が気にかかった。もし相手も同じ気持ちでいてくれたなら。この気持ちを打ち明けても、受け入れてくれたなら。そんなことある訳ないと思いつつも、二人はそうっと、互いを確認しようと視線を上げる。


 しかし、顔を上げた小芭内と蜜璃が互いを見つめることは叶わなかった。


「伊黒さん、甘くて癒されますねぇ〜!」

 二人の間で、なまえが呑気に棒つき飴を舐めていたからである。指先で棒を回し、飴を口内でくるくると転がしているからいい気なものである。

「ねぇ、伊黒さ……ん? ……かっ甘露寺様っっっ!?」

 いつの間にか元の姿に戻っていたなまえは、恋慕い合う二人の間に自分が堂々と座っていることに気が付き、すっ飛ぶように椅子から離れる。

「しっ失礼いたしました……!!」

 数尺は距離を開け、なまえは地面に深く頭を下げた。

「なまえちゃん! 術が解けたみたいね! 良かった!」

 気のいい蜜璃が、先ほどまで高鳴り続けていた胸を抑え、ごまかすようになまえへ駆け寄る。

「じゅ……つ?」
「なまえちゃんついさっきまで血鬼術の影響で小さい女の子になってたのよ。伊黒さんがここまで連れてきてくれて、今一緒に飴をいただいてたの!」
「血鬼術……伊黒さん……飴……」

 蜜璃の言葉を反芻しながら、なまえの顔から血の気がひいていく。自身がどうなっていて、そして師範相手に何をやらかしたのか……考えるのもおぞましい。ましてやさっき、二人の間に座っていたのではないか。

「甘露寺がいて良かったななまえ。命拾いしたと思え」
「そっそんなぁ伊黒さんたら! 私は何も……」

 小芭内に褒められたと思った蜜璃が照れて恐縮する。一方なまえは、もじもじする蜜璃の向こうに殺気立った蛇柱を見つけ恐怖に言葉を失った。

 彼の発した言葉の意味を正しく理解したなまえは、今この場で激しい叱責に合わないことを、師範の言葉通り蜜璃に感謝したのだった。

なめるな、きけん。

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