走れ風柱
実弥は激怒した。いや、激怒まではいかぬが、そこそこの怒りと憤りを感じた。実弥には女心が分からぬ。実弥は鬼殺隊の柱である。鬼を斬り、また鬼を斬って暮らしてきた。だからこそ血鬼術に対しては、人一倍に敏感であった。
経験値を積むため補助任務に来ていたなまえが、ぶかぶかの隊服の中でぽけっとこちらを見上げているのに対峙した実弥は、口元がひくりと反射的に動くのを感じる。
「おい、まさかお前……なまえか?」
「うん!」
目の前の齢五歳ほどの少女がにっこりと笑むものだから、しゃがんだ実弥は膝に乗せた腕の隙間にがっくりと項垂れた。
「かかったんだな」
「??」
「オニのジュツに」
「おに!?」
実弥は、理解できないであろう子どもに対し、反射的に分かりやすい言葉を選ぶ。それを聞いたなまえは恐がるどころか興味を突き動かされたようだ。
「おに、やっつける!!」
「あァ!? もう鬼は倒したんだよ。ったく……」
鬼と戦ったこの場所は血の跡が激しく飛び散っており、間も無く隠が事後処理に現れる手はずになっている。彼女の普段の姿を鑑みると、この状態を他者に晒させるのは気の毒に思われた。
階級は丁になるなまえは、熱心に稽古を重ね、怯まず現場に赴き経験を積んできた有望株として名を知られる隊士で、多くの後輩隊士から慕われている存在だ。
普段から朗らかな性質ではあるが、このようににこにこと屈託なく笑う幼女になっているところなど、誰にも見られたくはあるまい。自分だったらそうだ、と実弥は慮った。
「……一旦、屋敷に行くぞ」
「お兄ちゃんの家?」
「あぁ。ついてきなァ」
そこまで言って、実弥は再びため息をついた。
眼下に収まる小さな姿。隊服が大きすぎて、彼女は到底歩けるような状態ではない。
「これじゃ歩きにくいよう」
唇を尖らせて困ったように首を捻るなまえを直視しないようにしながら、実弥はしばし考える。考えるも何も、彼女を人の目に晒さず、かつこの場からすぐ移動する手段は際立って一つあるのみで、それ以外の選択肢はないように思えた。
「……連れてってやるから、絶対誰にも言うなよ……」
しゃがんだ実弥がぼそりと呟く。合図するように両手を出してやると、なまえは「抱っこぉ!」と喜び遠慮なく風柱の胸に飛び込んだ。
匂いは彼女のままらしく、すれ違いざまに時折なまえから感じたことのある芳香が鼻をついて、実弥は自身の心臓が跳ねるのを感じた。今はあくまで、術にあてられた隊士を柱として保護しているだけなのだから仕方がない。そう言い聞かせて実弥は帰路を急いだ。
軽快に岩を飛び越え、川沿いの道を進んでいると、なまえが「お兄ちゃんはやーーーい!」と声を上げきゃっきゃと喜ぶ。どうにもむず痒いのが我慢できなくなって、実弥は声をかけた。
「オイ、その『お兄ちゃん』ての、止めてくれねぇかァ」
「お兄ちゃんて呼んじゃだめなの?」
「ああ」
「じゃー、……兄ちゃん!」
懲りないなまえは、そう言ってにっかりと口を開いて笑う。それを見て、実弥の脳裏に幼くして亡くした妹達の面影が浮かんだ。
実弥が何も言わなくなったのでなまえは一瞬、きょとんとした表情になった。しかしそれ以降はまた、彼女は機嫌よく「兄ちゃん速い」と言って歓声を上げた。
■
それからしばらく後のこと。
困ったことになまえを連れた実弥は依然として川沿いにいた。
途中、「厠に行きたい」と言い出した彼女の為に人の少ない茶店へ寄り、店を出るなり水切りがしたいと騒がれ、目の前に見えた河原へ付き合う羽目になったのだ。
これ以上屋敷に近づけば、どの道誰かしら関係者にこの姿を見せることになる。
日暮れまで様子を見て戻る気配がないならば預け先を考えねばならない、と実弥は河原と土手を繋ぐ石段に腰かけ、頬杖をついて彼女を見守っていた。
全く彼女は水切りのコツを知らぬようで、裾を踏んづけてえっちらおっちらぎこちなく歩きつつ適当な石を選んでは川に投げ入れ、一、二度飛ぶか飛ばないかに一喜一憂している。決して上手いとは言い難いのに、努力家なのは幼くなっても変わらない性分らしい。何の基準も持っていなさそうなのに、穴が開きそうなほど地面を見つめ真剣に石を選んでいる。何遍やっても報われないなまえに、実弥は見かねて近づいた。
「こういうのは、平たい石じゃなきゃ駄目だ」
「そうなの!?」
じゃあ今まで何を吟味していたのかと言いたくなるのを抑え、実弥は地面を見つめる。なまえも俄然張り切って石に目をやる。
「こういうの??」
「お、悪くねぇ」
実弥に認められ、嬉しそうにはにかんだなまえの頬が柔らかな丸みを帯びる。
「見せてやる。ここに座ってよーく観察しとけェ」
「りょうかい!」
兄ちゃんが大技を見せてくれると踏んだなまえは、首尾よく相槌を打ち、実弥に連れて来られた石段にちょこんと収まった。
「ここから動くなよ」
「りょうかい! 兄ちゃん早く早く!!」
いつぶりか分からぬくすぐったいような気持ちを隠し、実弥は川へ近づく。
「低い位置から、腰をひねって、力を入れずに投げる」
指導か独り言か、曖昧な声量でコツを語りながら実弥が石を放つ。
回転のかかった石は小気味よく、とん、とん、ととんと続けざまに水面を切り、美しい文様が映し出された。
「ちゃんと見てたかァ?どんなもんよ!」
十は軽く越えたその記録に、鼻息を鳴らすように実弥が振り返る。
振り向いた実弥の視線の先。石段には、身体の寸法ぴったりの隊服を着こなしたなまえが、珍妙なものを見る目をして座っていた。
「結構な、お手前で……」
彼女は唐突な風柱の特技披露に付き合うかの如く、顰めた眉をそっと元に戻し神妙な面持ちでそれを評価してみせる。
実弥は再び、大きく口元がひくつくのを感じた。一体全体、どう説明してやろうか。どう説明しようとも、自身が今得意げに水切りを披露した事実に変わりはないのである。
「ええと……不死川様、こんな感じの石はいかがでしょうか?」
めっぽう気の利くなまえが、先程とは比べ物にならぬほど水切りにぴったりの石を見つけ出し、俊敏な身のこなしと足取りで近づき実弥に差し出す。
この真面目ななまえは、強面な実弥が唯一童心に返れるらしい時間を途切れさせるのが、たまらなく口惜しいのだ。
風柱は、ひどく赤面した。