12話
朝から早起きをして、なまえは握り飯を沢山こしらえた。もちろん、たくあんも添えて。上手に竹皮に包み、そんな自分に自然と笑みがこぼれた。屋敷の中をすみずみまで掃除して、よく風も通して、気持ちのいい朝だ。
やることを終えたなまえは借りている座敷に戻る。
荷物はもう、まとめてある。花見から帰ったら、そのまま夕刻のうちに出ていける状況だ。
広げて掛けてある桜色の着物の前に立ったなまえは、端から端までじっくりとそれを眺めた。紅色の柄に、絹の織りなす艶と雰囲気。うっとりするほど綺麗な、憧れのお着物。待ち焦がれていた瞬間が訪れたのに、我に返ると泣きそうになる。これに袖を通せば、きっともう、義勇と顔を合わせるのは最後になる。なまえは目を瞑って、そっと桜色の着物を抱きしめた。
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玄関へなまえが現れると、義勇はおもむろに視線を逸らしまるで興味がないような素振りを見せた。今度「どこに目をやったらいいか」とうろたえたのは義勇の方であった。なまえは彼の顔に出ているその機微に気が付き、照れてはにかんだ。
桜など見る必要もないかもしれない、と義勇は思った。
柔らかな陽射しに照らされる、全身をほのかな桜色で包んだなまえは特別に美しかった。
柄と揃いの紅色が、控えめな唇によく映えて目を引く。血色の良い頬に、綺麗に結われた髪。そこに、彼女が姉から譲り受けたかんざしが、この日の為に存在したかのように華を添えている。
「ど、どうでしょう」
「うん」
義勇は咄嗟に良い言葉が見つからなかった。もっと他に、良い言い回しが沢山あるはずだと分かってはいても。
「寸法も問題なさそうだな」
「……うん!」
義勇が発した言葉は結局味気のないものになってしまった。しかしそんなことは気にせず、なまえは「てへへ」と上機嫌に笑った。
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「本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
義勇の足取りから回復は十分に感じられたが、念のためなまえは訊ねた。さすが元柱の回復は素晴らしかった。昨日、夕方にはすっきりと目覚めた義勇は、もりもりと鮭大根をはじめ夕食を食らい、けろりとしていた。
熱にうなだれた時に垣間見た妙な雰囲気も消え、なまえはもったいないような安心するような不思議な気持ちに見舞われたものだった。
「良かった!さすが、義勇さんは体力が違うね」
「なまえの飯のおかげだ」
「そっ、そんなことは、ないです、よ!」
なまえは照れて片言になりながら軽く語尾を強める。義勇はなまえのぎこちない様子に若干の違和感を抱いたが、いつもの遠慮かと深く気には留めなかった。
今褒められれば名残惜しくなってしまうから、彼女はぎこちなさの下に、想いを断ち切る覚悟を隠す。
今日一度、死ぬくらいの覚悟で。
守るものの為に命がけで戦ってきた人を、この目で沢山見てきた。
もう無理に言い聞かせなくとも、なまえは今日の日の出来事を胸に、生きていく覚悟を決めていた。
最後に、一番幸せな形で、一番慕う人と過ごすことを許して欲しいと、そう神に祈ってなまえは足を進めた。
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義勇から見たなまえは、今日一日特別に機嫌が良かった。街を歩く時も珍しいものを見つけては足を止め、「義勇さん、見て!」とはしゃいだ。茶屋へ立ち寄った際は飲むものだけを注文し、少し足を休めたのち、土産用の団子を買った。
二人は、先日雨宿りをした橋の向こう、遠目に見た桜並木まで行こうと決めていた。往復するにはやや距離があるので義勇はなまえを気遣ったが、彼女は是非ともあそこへ、と喜んだ。
「やっぱりここは圧巻の景色ですね!」
橋を渡り切ってすぐに広がる桜並木を目にして、なまえが感嘆の声を上げる。
「うひゃ〜〜雨みたい〜〜!!」
葉が増えてきている桜の木からは絶えず花びらが落ちていた。少し強めの風が吹くと、その量が増し、なまえの言う通り、雨のようである。
満開の時期を過ぎた桜並木の人通りはまばらで、ゆったりと過ごすにはちょうどいい雰囲気だった。二人は桜の木の間に配置されている木の長椅子に揃って腰かけた。
「葉桜のお花見も、風流ですね」
「ああ」
「わあ、でも花びらがいっぱい落ちてくる。おむすびについちゃうかな。はい、どうぞ」
お使い包みされた風呂敷を手際よくほどいたなまえから、義勇が竹皮の包みを受け取る。幼少の頃とは違い、綺麗に包まれた竹皮を開くと、握り飯とたくあんの組み合わせが顔を覗かせた。
ぬるい外の風に吹かれながら取る昼食は、訪れた平穏を実感する、身に余るような至福の時間だった。
眼前に広がる川の水面に陽光がきらめき、カモの親子が連なって進むのを二人はぼんやりと目で追った。
食後、近くに笹の葉を見つけたなまえが意気込んで笹舟を作った。川に放ちに行こうとしたが、ぬかるみで転ばぬよう義勇に声をかけられると、「お着物汚れたら困る」と結局引き返した。
竹筒に入れたお茶をゆっくりゆっくり飲み、義勇となまえは桜のことや、斜向かいで遊ぶ子どもたちの様子、街の変化についてなど、なんてことのない目の前の出来事についてのんびりと言葉を交わした。ちょうど良い頃合いになったところで街で買った団子を頬張った。
空高いところにあった日が少しだけ西側に傾いてきた昼下がり、二人はその場を後にすることにした。
「ええっ!?」
立ち上がって見ると、絶えず舞っていた桜の花びらが義勇となまえの掛けていた以外の部分に振り積もり、椅子に二人が座っていた跡をくっきりと示していた。自分の座っていた跡を恥ずかしく思ったなまえが積もった花びらを手で払う。払われた花びらはふわりと浮かんで地面へ舞い落ちる。
ひらめきを得たなまえは、義勇の掛けていた場所周辺に積もった花びらへ手を伸ばし、一所に桜をかき集めた。
それを両手で掬い、彼女は義勇の方を振り返った。一歩近付いてきょろきょろと周囲を見回し、誰もいないことを確認する。それからなまえは「えいっ」と小さく両手を上げて集めた花弁を空に放った。
広がった桜の花びらは舞い落ちる間もなく、風の道筋を見せるように二人の間から川の方へなびいて消えた。
風の勢いが強く、思うような舞い落ち方ではなかったことになまえが口をぽかんと開ける。
「……子どものようだな」
その様子に義勇が思ったままの感想を述べ、なまえは恥ずかしさと悔しさで唇を小さく尖らせたのだった。
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椅子を抜け並木道に戻ると、やや肌寒い風が吹いてきた。
いくら回復したとはいえ互いに病み上がりであるゆえ、早く帰路についた方がいいと思われる。二人は連なって道を進んだ。
来た時とは逆方向へ戻り、橋が近づいてきた頃だった。なまえが不意に足を止めた。
「すみません、最後に見納めさせてください!」
にっこりと笑ったなまえは義勇に断りを入れると、道の垂直方向へ突然足を踏み出し、桜と桜の間に立ち止まる。
義勇もそれに付き合って、何の気はなく彼女の横に収まった。
眼下に広がる川の水面には、少しだけ温かみを増した色合いの光が反射し、眩しくきらめいている。川の向こうには、いつも行き来している桜並木が見えた。
味わうように二人がその場に佇んでいると、この日一番の強風が並木道を通り抜けた。
地面に落ちていた花びらまで舞い上がる。
風の過ぎた瞬間と、その後と、時間差に枝から離れた花弁が、次から次へと二人の頭上に降り注ぐ。
風と桜からの、別れの挨拶だ。
「わあ……」と感激の声を漏らし、なまえが顔を上げる。真上を見れば、桜色に枝葉の混ざった幻想的な景色が広がっている。そこから雪が降るようにちらちら、ひらひらと花びらが落ちてくる。
この上ない幸せの中で、なまえは言うなら今だ、と思った。
「義勇っ、義勇さん……」
明るい声で名を呼ばれた義勇は、さぞ喜んでいるのだろうと彼女の方を向き、その横顔に目を奪われた。
笑みをたたえた彼女の、ほのかに染まった頬が穏やかにゆるむ様子。きらきらとした瞳は、幼少の頃と変わらぬ慈しみを持ち輝いている。義勇はなまえから視線を上げ、彼女をこんな表情にすることのできる、降り注ぐ桜に目をやった。
「私、例の、あの方の元へ嫁ごうと思います」
義勇は舞い落ちる花びらを追いかけるように視線を下げ、再びなまえを見つめる。
「生き延びた命だから。子を成して、鬼殺隊のみんなの分まで想いを、命を繋いでいかねばと思います」
決意を固めたなまえは頭上の桜を見つめていた顔を戻し、真っすぐに眼前の景色を捉える。
眺める水面が反射しているのか、彼女の瞳が涙で潤んでいるのか、義勇にはよく分からなかった。
「最後に義勇さんと過ごすことができて、とても嬉しかった。不安がないと言ったら嘘になるけど、このお着物と一緒なら頑張れそうな気がするの。宝物として、生涯大切にします」
そう言って、なまえは着物を抱きしめるように胸元を両手で押さえる。
義勇は途中から、よく聞き取れなかった。
なまえの言葉の意味は十分に理解できたが、それはどこか遠いところで行われている別の話のことのようだった。
目の前のなまえが美しく、儚く感じられた。尊くすら思えるその姿に、知らぬ間に義勇の手が伸びる。
「義勇……っ?」
何も言わない義勇に焦り、なまえが彼を呼ぶ。振り向いたなまえの視界は、自分に伸ばされている義勇の腕の影に埋め尽くされた。
その直後、頭の右側を大きな手のひらで包まれたなまえは、そこだけじわじわと熱が帯びるのを感じて身動きが取れなくなった。
狼狽したなまえが義勇を上目に覗くと、思った以上に顔が近く、何を考えているのか掴めない瞳とぱちり視線が合わさった。
「あ、あの……」
ぱちぱちと瞬きをして、なまえは身体を縮こめる。
義勇はゆっくりとした動作で彼女の頭を撫でるように手を滑らせると、耳に触れる辺りでそっと熱を離した。
「花びらが」
義勇が示した指先には、桜色の欠片が心許ない様子でとどまっていた。しかしそれも、空気の揺れであっという間に義勇の手を離れ落ちる。
「あ……りがとう」
高鳴る胸を押さえて、なまえは礼を絞り出す。見つめた指先から顔を上げた彼女は、また義勇の掴みどころのない熱い視線に捕らえられてしまう。
じっとこちらを見つめる義勇の瞳に、夕日に照らされた自分が映っている。戸惑いと、熱を含んだ我が身の姿。目を逸らすことができず、その場に固まるなまえは、距離の近さに心臓の音が聞こえてしまうのではないかと思った。
「綺麗だ」
突然、義勇がそう告げた。
「着物も、かんざしも。なまえによく似合っていると、思う」
ぽろりぽろりとこぼれ落ちるように、義勇の口から褒め言葉が溢れる。
「言うのが遅くなったが、一目見た時からそう思っていた」
なまえは急なその言葉に、鼻の奥がつんと痛んだ。涙を堪える唇が震えるのを、必死に抑える。
「ありがとう」
やっとの思いでなまえは言葉を発した。
義勇となまえは互いを見つめ合い、今度はもう、言葉を必要としなくなる。
その刹那、二人の後方から突然、男の冷たい声が響いた。
「そこで何をしている……?」