11話
 義勇は、よく錆兎と組み合って戯れた。色んな姿勢を取り、手を握って妙な格好をしたり、指先を合わせたりして、鱗滝を笑わせたものだった。

 しかし今日はうまくいかなかった。いつものように錆兎と指先を合わせようとしているのに、これがどうにも手を握ってしまう。更には、指が絡み合ってしまう。
 自分の身が思ったように動かないことを受けて、義勇にはこれが夢であると認識された。


 ふ……と目を覚ましてみると、夜半はとうに過ぎ、薄明るい外の様子を見るに明け方のようだった。長年の習慣により眠りが浅く、戦いを終えた後も大抵夜中に何度か目が覚めていた義勇は、こんなに深く眠ったのはいつぶりだろうか、とぼんやりとした頭で思った。しかしそれはすぐに、猛烈な違和感に取って代わられる。義勇は違和感の先へ視線を移動させ、なまえと指を絡めている自身の左手に気が付きぎょっとした。

 昨夜、様子を見に来たことは覚えている。なまえが少しうなされているようだったので、横に座りしばらくの間変化がないか見ていた。それ以降は寝てしまったのか記憶がない。
 それ自体はいいのだが、何がどうなって指を絡め合うことになったのか。
 ばくばくと鳴り続ける心臓を抑え、まさかこれ以上のことはしていないかと、義勇は布団の隙間を覗く。なまえの首元は暑かったからか多少普段より広く開いてはいるが、乱れた様子はない。自分の着衣にも変わりはなかった。
 当然のことでありながら、大変にうろたえた義勇はほっと胸を撫でおろした。
 なまえは顔色も良く、気持ちよさそうに寝息を立てている。彼女を起こさぬように、義勇はそっと指を引き抜きにかかった。

 思えば昔、こんな風になまえと手を繋ぐのは、当たり前のことだった。

 こっち来てと義勇が手を引いたこともあったし、一緒に行こうとなまえが手を取ったこともあった。急いでどこかへ向かう時は、どちらからともなく自然と手のひらが合わさったものだった。

 再会した時でさえ、義勇は彼女の手を取った。

 義勇が左手に目をやると、力の抜けたなまえの指先が自身の指に重なって交差しているのが見える。自分とは違う、しなやかで柔い指先だ。
 突然、自分たちはいつの間にか成人した男と女になっていたのだと、義勇は事実を突きつけられたような気持ちになった。こんな風に手を繋ぐことはもう二度とないだろうと思うと、不意に、引き抜きかけた義勇の手が止まった。

 朗らかで、気遣い屋で、時にうまく振舞えないことのある自分にも違和感を持たず接してくれるなまえ。
 彼女といると、落ち着くような、肩の力を抜いて過ごせるような気がしている。
 どこか奥深い部分で近しく感じるなまえが、彼女が、このまま屋敷に居続けてくれたらどんなにか日々が豊かになるだろう。

 そう頭をかすめて、しかし浮かんだ想いを義勇は振り払った。

 なまえにはなまえの人生がある。
 例の男からの求婚を受けるにしても、断るにしても、どの道屋敷を出ていく存在なのだ。
 一時しのぎでも住まうところが見つかれば安心して当然だ、新しい着物が手に入れば喜ぶものだろう、そんなことに思い上がるなど、勘違いも甚だしい。

 名残惜しいなどと思った自分を恥じるように、義勇はなまえの手から指を引き抜いた。





「……っしゅん!!」

 立ち上がろうと上半身を起こした義勇は、湧き上がる悪寒と共にくしゃみを放った。

「へっ!?」

 音に驚いたなまえが目を覚ます。彼女はすぐに、後ろ向きに座った義勇の背中を見つけた。

「くしゃみ……義勇さん?」
「いや……」

 義勇は即座に否定してみせたが、本人にもなまえにもその声は紛うことなき鼻声に聞こえた。
 なまえは起き上がり、布団から這い出すと、正面から義勇を捉える。思った通り、鼻がほんのりと赤くなっており、目つきも幾分かぼんやりとしている。

「わぁっ! 私のせいです本当にごめんなさい!!」

 その場で頭を下げたなまえはすぐに立ち上がると、義勇を彼の寝床まで促した。





「……病み上がりなのにすまん」
「いいいいえ!! 私が風邪をうつしたので謝らないでください。私のせいです」

 用意した粥の膳を置き、寝かされた義勇の横にしゃきっと正座でおさまったなまえは、申し訳なさそうに眉を下げた。

「それに私、義勇さんの看病のおかげで元気いっぱいですから!」

 義勇は力なく頷いて、なまえをちらりと覗き見た。
 どうにも体調を崩して萎れてから、彼女の口調が以前のような距離のある言葉遣いになってしまったように感じられる。こうなると義勇までもが、葉桜の花見に行きたかったと思わずにはいられなかった。そうすれば、にこにこと機嫌よく笑って自分に話しかけてくれるなまえが見られたのではないかと思うと、堪らなく惜しい気持ちになるのだ。

 気遣わし気に覗いたなまえが、そっと義勇の頭の後ろに手を差し込む。

「節々とか、痛くないですか? 熱が高いと痛くなるものです」
「ああ、痛みはない」
「……良かった」

 多少の痛みがあったとしても、数々の死線をくぐってきた義勇にしてみれば微々たる刺激であった。しかし、雨に濡れ、看病しながら寝たくらいで風邪をひくとは、義勇も義勇で自分を情けなく思う。

「食べられますか?」

 半身を起こした状態の義勇は、久しぶりに感じる高熱にぼうっとしたままこくりと頭を下げた。
 なまえは粥の器を持ち、匙に取った分を冷ましている。この流れでは義勇に食べさせる気であろう。義勇は今までも重傷を負い治療を受けたことはあったが、意識を取り戻し起き上がれる状態で人に食べさせてもらうといったことは一度もなかった。
 しかし熱に冒された意識と隻腕の身体でこぼさず粥を食べるのは、難しく煩わしいことのように思い、義勇は恥を忍んで従うことにした。

「……はい。お口、開きますか……?」

 義勇が言われるままに口を開けると、なまえがその口元に優しく匙を添える。そっと触れた匙から、温かな粥を受け取ると口内に熱が広がる。喉元を過ぎると、腹の方までふくふくと温まる気がした。少しの間、義勇はもくもくと粥を食した。

 義勇が風邪で熱を出したのは、本当に、子どもの頃以来であった。
 誰かの介添えを受けることなどあまりに懐かしく、義勇は自身が弱まったような錯覚を覚える。熱でぼんやりした意識も相まって、ひどく甘えた気持ちになる。
 このままなまえの肩にもたれかかってしまいたいという想いに猛烈に囚われた義勇であったが、そのような腑抜けた姿は見せまいと、相反する想いの末、彼は衝動に打ち勝った。

 粥を綺麗に平らげた義勇を見て、なまえも安心した様子を見せた。

「これだけ食べられるなら良かった。柱様の回復はあっという間だから」

 そう言って、彼女は膳の上の食器をかちゃかちゃと整理し始める。
 このままでは、なまえがこの場所からいなくなりそうで、義勇は急ぎ用件を申しつけねばと考えた。しかし閉められた障子から入るゆるい明るさも室温もちょうどよく、氷嚢も用意したてでよく冷えている。
 押し黙った義勇は、なまえの襟元や指先をじっと見つめるばかりである。

「だ……大丈夫?」
「……ん、」

 いくら何でもいつもと様子の違う義勇に、なまえが確認の声を掛けた。
 しかし上目遣いの義勇が物欲しそうな視線をよこすので、なまえは聞いたそばから戸惑うこととなった。少しだけ荒い息遣いと、何かを訴えかけるような表情に、吸い込まれるような色気を感じてなまえは思わず視線を逸らした。

(風邪をうつしたのに何てことを考えてるの私!)

 深呼吸したなまえは気持ちを立て直し、室内を見回す。特に足りないものはなさそうなだと判断し、彼女は膳を持ち上げた。身体を横たえた義勇は、何か彼女をここに留まらせるいい用件はないかと考えているうちに、再びの眠りについていた。





 柱の回復の度合いは群を抜いて早い。粥を問題なく完食できたのを見て、なまえは次の食事には通常食を出しても差し支えないと考えた。
 そこで、なまえは彼の好物と知った鮭大根を作ろうと思いついた。栄養価も高く、柔らかいのでちょうど良い。
 義勇がぐっすりと眠っている間に材料を調達して驚かせようと思い、なまえは膳を下げてすぐに買い物へ出掛けた。


 竹林を抜け、橋を過ぎ、川沿いの道を通りすぎて馴染みの商店街へ向かう。
 いいことを考えている時の足取りは軽い。
 人目につかない程度の速足ですいすい進んでいると、前方に困った顔をした郵便の配達夫を見つけた。

 なまえは、いつも自分のところへ手紙を届けてくれていた馴染みの配達夫だと気が付き、自然と速度を下げた。その様子に気が付いた配達夫は、なまえを見るや否や、一目散に駆け寄ってきた。

「君!なまえさんだよね?」
「あっ、は、はい!そうですけど」
「良かった……! 家がもぬけの殻になっていたから、何かあったんじゃないかと心配していたんだよ」
「ああ! ご心配をおかけしてすみません!」

 ひとしきりなまえの無事を喜んでくれた配達夫は、手提げかばんから一通の封筒を取り出した。

「これ、君がいなくて渡せないものだから持ち歩いていたんだよ。良かった、これですっきりだ!」

 そう言って、彼はなまえにぎゅっと手紙を手渡す。そしてあっけにとられるなまえに白い歯を覗かせ、「僕は急ぐから」と来た道を駆け戻っていってしまった。

「……」

 なまえは手渡された手紙へ視線を落とす。見慣れた封筒に嫌な予感がする。
 裏を返すと案の定、差出人は冨岡の遠い親戚筋の男からだった。





 "窃盗の被害に遭われたなんて、さぞ驚いたことでしょう。
 なまえさんの身が心配です。
 私は今も変わらず貴女を許嫁だと思っています。
 身一つで構わないので、遠慮せず私の元へ来てほしい。"

 相変わらずの手紙の調子に、なまえは苦々しさを覚えた。しかし先日考えたように、迷いを断ち切らねば、と一文字一文字ゆっくりと読み進めていく。

 "二人で散策した日のことを覚えていますか。
 あの日貴女が姿を消したことは、何とも思っておりません。
 事を急いたゆえに恥ずかしい思いをさせてしまいましたね。
 ところであの日、貴女が姿をくらます直前、私は誰かに押し飛ばされたように思うのです。
 まさかとは存じますが、他の男と駆け落ちなどをするつもりではないかと。疑ってしまった私をお許しください。
 そのようなことがあれば、私は相手の男を許すことができないでしょう。"

 末尾まで目を通したなまえは、そのおぞましさに指が震え、思わず文を手放した。ひらりひらりと揺らめきながら、彼女の足元に便箋が落ちる。

 男の言葉はもはや脅しめいていた。その意図を、なまえ自身も感じ取る。
 これまで、あの男との結婚は自分の意志の問題であると思っていた。

 しかし、事が義勇へ及ぶなら話は別だ。

 正面から対峙するなら、肉体的に義勇が被害を受けることはまずないと言える。
 しかし、彼は立ち回りが不器用で、饒舌に相手を言いくるめるような動作を得意とはしない。屋敷や生活範囲、男が立場と権利を利用できるであろう関係各所の手が及べば……義勇を追いやることも絶対に不可能とは言い切れない。

 顔を上げたなまえは眼前に広がる桜並木を見つめ、唇をぎゅっと噛んだ。
 
 はらはらと、小さな花びらが舞い落ちている。ささやかで、ひときわ美しい春。

 義勇にはやっと訪れた春なのだ。それを脅かすことなどあってはならない。
 彼にこれ以上、迷惑をかけることなど許されない。それも、自分の不手際をきっかけに。

 風に飛ばされそうになった文を拾い、懐へしまったなまえは、今度こその覚悟を決めて道を歩みだしたのだった。

11話

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