10話
次の日、空には気持ちのよい快晴が広がっていた。しかし、枕に頭を預けたままの姿勢でそれを覗くなまえは何とも言えない残念な気持ちであった。昨日体の芯まで冷えてしまった所為か、なまえは熱を出してしまった。他にさほど調子の悪いところはないのに、義勇に厳しく言われ、葉桜の花見は延期となった。
「天気に恵まれたのに……」
雨に濡れたくらいで熱を出す自分の身体が憎らしい。隠の頃はもっと厳しい環境でもへっちゃらだったはずなのに、いつの間にか腑抜けていた我が身が悔しく、通り雨への恨みがましい気持ちも相まって、なまえは口を尖らせて布団を被った。
「どうだ」
氷嚢の支度をした義勇が襖を開け、座敷に足を踏み入れる。看病の経験は少なくとも、各種手当には慣れている。義勇は的確な視線でなまえの頬色や汗のかき具合、表情などを観察する。
なまえは申し訳なさに体を半身を起こして謝罪した。
「ごめんなさい!大丈夫です。どうか私のことはお構いなく……」
「無理に起き上がるな。寝ていろ」
「……はい。ごめんなさい」
正しい指摘にしょんぼりとなまえが横になる。義勇は多くの人命を救い、隊を導いた立派な水柱だというのに、一介の者である自分の世話をさせるなどとんでもない。ましてや屋敷に一時的に置かせてもらっている身分であることを思うと、なまえは申し訳なく、恐縮の至りであった。
「本当に……申し訳ありません……」
なまえの落ち込みは相手にしないと決めたのか、義勇は特に返事をせず着々と彼女の頭上に氷嚢釣りを置き、そこへ氷嚢をひっかけた。
「義勇さんにうつしてしまったら大変なので、自分でやります」
なまえは力の抜けた腕を布団から出そうともぞもぞ動かしたが、義勇はじとっと彼女を見て、視線でそれを制する。観念したなまえが収まり悪そうに静かになる。すると額に爽やかな冷気が当たり、彼女の口から思わず声が漏れた。
「ひゃ……」
「寒くないか」
「……はい。寒気は止まりました。額も……心地いいです」
「そうか」
大きな心配はなさそうだと判断した義勇が、他に必要なことはないか室内を見回す。
つられて義勇の視線を追ったなまえは、座る義勇の向こうに、今日着ようと掛けておいた桜色の着物を見つけ一層気を落とした。
「いただいたお着物を着て行こうと思っていたのに……」
「治ったら、いくらでも着られる」
「……はい」
すっかり昨日の勢いをなくしたなまえを気の毒に思うものの、義勇は身体が資本であることをよく知っている。とはいえ、普段は気丈に振舞おうとするなまえの珍しい泣き言だ。早速うとうとし始めるなまえの横で、そんなに楽しみにしていたのかと、義勇は掛けてある着物に目をやった。
大切に広げられた桜色は、室内で花見気分に浸れそうな華やぎである。義勇がまじまじと眺めていると、ふとその向こうに、彼女が遠い親戚筋の男から受け取った例の袴が置いてあるのが目に入った。
大きく広げられた着物と、畳まれて隅に小さく置かれている袴は、その存在が対照的で、まるで彼女の心の内で二点がどのような存在感を持っているかを表しているようにも見える。
着るものが減ってもなまえはあの袴を頑なに着ようとはしなかったのに、自分の渡した着物はこんなにも着たがっているのだと思うと、義勇は胸の奥がどうにもくすぐったいような気持ちになった。
彼女は着物が好きなのだろう、と自分を落ち着けねば、妙な優越感に飲まれてしまいそうな気さえした。
■
「まあた熱を出したのかい!身体を冷やすなと言ったろう!」
なまえはけたたましく響く祖母の声に、慌てて目を覚ました。
「ご、ごめんなさい!」
「女は水仕事が多いんだ。身体が弱いと思われたら、嫁の貰い手がなくなるよ!」
「はあい」
「はあいじゃない、はい、だろう!」
「はい!」
洗濯物を抱え、寝ているなまえの横で針仕事を始めた祖母は、きびきびとした口調でお馴染みの説教を繰り返す。
「女が一人で生きていくのは大変なんだよ。沢山の女が余って苦労してる。男に見初められ、跡継ぎを産んでようやっと嫁と認めてもらえるんだ」
「ふうん」
もう何百回といわれた言葉に、なまえは簡単な相槌を打つ。
「許嫁こそいなかったがね、私もお前の母さんも、見合いをして結婚した。旦那に尽くすのが女のやるべきことだ」
「いいなずけ?」
「結婚を約束した相手だよ。そういう人がいたらこんな恵まれたことはない。許嫁がいるような連中は、必ず結婚できるんだから安泰だよ」
「へ〜じゃあ許嫁っていいね」
「馬鹿言ってんじゃないよ! うちみたいな家に許嫁の話なんか出やしないよ。お前は自分で努力して相手に気に入ってもらわないと」
「そうなんだ」
祖母の言葉と価値観は、幼いなまえにとって絶対のものだった。女にとって、男に気に入られることは絶対に大切なこと。結婚をしなければ生活がとても大変なこと。許嫁というのはいるだけで貴重な存在であり、無下にするなど許されないこと……。
隠になろうと決めた時、なまえは両親の仇を討つ為、憧れの人と消えた友の無念を晴らす為、自分の人生を鬼殺隊に尽くそうと決めた。結婚等考えもしない身になることは亡き祖母に背くような気がして胸が痛んだが、鬼などいなくなればいいと思う気持ちが強く勝った。
しかし鬼のいなくなった世にただの女として存在することになった今、なまえの心の奥深いところにある祖母の言葉は、鈍い引っ掛かりとなって彼女を揺らし続ける。
「お前は結婚するんだよ」
「許嫁なんて話があるのは良家だけさ」
「断るなんて、考えられない」
■
はっと目を覚ましたなまえは、徐々に見慣れつつある座敷の天井を目にし、横で胡座をかいた姿勢の義勇がうたた寝しているのを見て、安堵した。
心臓が早鐘のように鳴っている。額に当たった氷嚢はぬるく、身体は随分と楽になっていた。荒い息も、高鳴っている鼓動も、熱ではなく夢のせいだと理解する。
せっかく祖母に会えたのに、悪夢のような捉え方をしてしまった。そう思うと、なまえは胸が痛んだ。
祖母は厳しい人だったが、両親を失ったなまえを気にかけ、夫を失った一人身で懸命に彼女を育ててくれた。疎ましく思うことも多々ありはしたものの、なまえにとってかけがえのない肉親である。
鬼殺隊への入隊は、祖母の想いに背くような決断だった。
沢山の仲間たちが犠牲となったのに、自分は命ある身で今を迎えることができた。
祖母や、亡くなっていった仲間達を思えば、自分の悩みなどちっぽけなことのように思えてくる。子を成し、命を繋いでゆくことが、残りの人生を懸けてやっていくことなのではないか。
「あいつは古めかしい服を着て、みっともない男だ」
「今の娘、見たかい。あんな器量でどうやって生きていくのだろうね」
なまえは許嫁と名乗る男と歩いた道中を思い出す。
あの性根の悪そうな息子と、生涯を共に歩めるだろうか。
義勇のような人だったら。
いや、義勇だったなら。
なまえの胸で、蓋をしていた想いが顔を覗かせようとする。今の穏やかな、何てことのない日々を大切に重ねるようなこの時が、ずっと続いたらいいのにと。
……何を馬鹿げたことを考えているのか。
なまえは再びその想いを強く押し込める。
義勇には義勇の人生がある。昔馴染みのよしみで、一時情けをかけてもらっているだけなのに、のぼせるような思い上がりをして、みっともない。
衣ずれの音を立てぬようなまえがそうっと頭を動かすと、静かに寝息を立てる義勇の顔が見える。
精悍な顔つきの、立派な男性になった。それでいて、険しさのなくなった穏やかな表情。
義勇がこんな風に過ごせる時が来て良かったと、なまえは心底思う。
と、その時、膝に乗っていた義勇の手がするすると滑り落ち、布団から出ていたなまえの手の甲と触れあった。
先ほどの目覚めとは比にならないほど、なまえの心臓が跳ねる。薄闇の中、心から慕う人物の手が自分の手と触れている。義勇の温度が、なまえに移ってそこだけが燃えるように熱く感じられる。
なまえは、震える手をそうっとそうっと時間をかけてずらし、義勇の手を静かに握った。
関節の目立つごつごつとした指、皮の厚い剣士の手。小さな頃とは、まるで違う。
(たまたま、当たってしまったことにしてしまえ)
そう狡い言い訳をして、なまえは再び目を瞑った。