ルールは簡単だった。
あれだけ焦がれたその人は、今にして思えばあっけないくらい簡単に。少なくとも今は、それが新しい"当たり前"になった。居心地がいい、好きで、好きで、好きで。打てば必ず届くシュートより跳ね返るボールより、目前に迫る甘い表情がすき。
「ペース落ちてるぞ!」
厳しい声が好き。
「はい!」
応えるのが好き。
「お前が見失ってどうする!上がれ上がれ!」
響くボールの音が好き。走るシューズの音が好き。流れる汗の感触も好き。
たてまえはOBと現部員、元キャプテンと現キャプテン、緑のゼッケンポイントガード。
固まって動かない身体を、撫でるようにそっと抱き締める腕がすき。歳より幼く見える短い前髪が、伸びた自分の前髪に触れる距離がすき。
「……天化」
唇の近くで、重なりそうな声がすき。
「コー、」
そういられない部活の間は、本当は好きじゃない。嫌いなんじゃない、"好きじゃない"。そんな子供の我が侭を、わかってくれないところだけ、嫌い。
「…っ、コーチ…」
背中が軋むくらいに強く抱き締める腕が好きで、息が出来なくなるキスを貰うのが好き。初めて唇に触れた舌の感触に、覚悟と期待を飲み込んだのに。望めば望むほど反比例して優しくなるそれがイヤだった。"当たり前"になった憧れのその人は、それ以上の当たり前を与えてはくれないから。
「なんでさ!絶対帰んない!」
「もう8時だろう」
「……なんでさ」
「決まってるだろう、天化が好きだからだよ」
そんな大人の戯言は、わかっていてどうすればいいかわからない。
「家まで走るぞーっ!!」
「それじゃ部活と変わんないさ」
好き、嫌い、違う。同じ好きなのに違う。とっくに承知の上の7歳は、確実に天化の胸を蝕んでいた。チクチク痛んで飲み込めない。赤い木の葉が風に舞っても幼い蕾が膨らむ季節も、どれだけ憧れたかなんて伝わらないんだ。いつだって追ってばかりのボールが見える。
「……俺だって離したくないよ」
その声が聞こえていたら、なんて、そんなもしもはないんだろうけど。
おかしい?フツウ?当たり前?
「コーチ…」
肩を竦めて潜り込んだ当たり前の布団の中は片想いの放物線。まだまだ見えない、背中しか。おかしいと思う、今更ながら。それでも触れた唇が、
「…コーチ」
確かに熱いから、今日だって引き返せない。確か部活の仲間の中で彼女が出来たヤツがいた。驚きと揶揄と冷やかしと、結局は待っていたのはお祝いの言葉と応援の言葉。同じ学年の違うクラス。クラスが違うから休み時間しか会えない?――なんさそれ。会えるだけましさ。
震える思考が膨張する。
ずっとずっと好きなのに、会えるのに、隣に居るのに、確かにキスをくれるのに。あんなに大人の――
「…っふ…」
思い知った7歳差。
唇を噛み締めて、ボックスティッシュを道連れにした。息が走る毛布の下。明日は仕事が忙しいから帰りが遅い、明後日は部活もない。今日だってそうだった。部活の時間はたてまえで、やっと重なった時間は年齢差に追い立てられて。
「……―ッ」
コーチは大人だから、きっとこんなことはしない。触れたくて汚したりしない。スキに比例するキライとこんなにやましいことと、それでも引き返せない毎晩と。初めて見たあのパンフレットを想い出す。この人になろうと決めた人、奪還を誓ったレギュラーと、ファーストコンタクトの文化祭の蝉の合唱。
「放物線の先を見ろ!上!じゃないとそこで拐われるぞ!」
――ちゃんと見てるさ!
想い起こしたが最後、
「天化がチームの最終兵器だ!」
必死で噛み殺した声に、放物線を放って消えた。
何処か遠くで、鍵穴の回る音を聞いた。決めたんだ、教えてくれたのは他ならぬその人だから。何度確認しても不安と興奮が入り混じる、あの試合前の張り詰めた空気に似ていた。
「ん?」
きっと首を傾げてる。そんな声と回る鍵穴に革靴の音。布団の下の初めての匂い。近付く足音と鼓動が重なる10カウントに試合開始のホイッスル。ジャンプボールより高く心臓が跳ねた。
「って、」
恐らく続く予定だった声がぶつ切りになる様子は、確か少し前も聞いた気がする。
「ちょっと待て!」
なにがどうしてこうなった?目を丸くするスーツ姿の恋人を前に、礼儀正しく正座したその人のベッドの上。当然の如く衣服なんてものは存在しない。
「弟だって言ったら入れてくれたさ、管理人さん」
「いやっ、…それはだな、だからそーゆー問題じゃなくて」
「じゃあなんさ?」
「服!とりあえず服!」
頭を振りながら脱ぎ散らかした服を拾い集める姿を、何処か遠くで眺めていた。
…コーチでも赤くなったりするんさ?それが不思議で堪らない、わからない。
「早く帰りなさい」
突き放すようなそれが降る。
「コーチが言ったさ、"先を見ろ"って!」
わからない。
「俺っちだけのって――!」
言いかけた唇が塞がれたのも瞬時に回るその世界も、確か何処かで繰り返していた。わからない、帰りなさい、の、その意味が。なんで?なんでなんで…
胸が跳ねて息が止まる。今、焦点の合わない距離でキスをくれる人は、本当にあの憧れた道徳だろうか。矛盾?なにが?
「お前は未成年なんだ!」
違う?
「"守る"立場なんだぞ!預けられてるんだ!」
言ってることと、
「親父さんになんて言ったら…ッ」
していることが、
「……っ、ぁ」
「死ぬ気で待ってたっていうのに…!」
矛盾?してる?
わからない。止まないキスに、頬と胸に触れた手が熱い。
「……コーチが?」
「…お前が成人するまではってな、決めてたけど…」
つらかった。本当は触れたかったよ。
呟く声は聞いたことのない低い声で、それだけで胸の音がした。全力疾走の比にならない。
「す…好き同士が一緒にいられないなんて、そんなのお…」
おかしいさ。叫んだつもりのその声もキスに紛れて吐息に変わる。
「不安にさせたな。…すまん、天化。」
自分だけじゃない?何故か謝るその訳も、飲み込めないまま必死で酸素とキスを求めた。ぐるぐる回る天井に、入れ替わる二酸化炭素と酸素と唇。混ぜ返されて背筋が反った。
「あぁッ、あ、…ン、」
昨日まで殺せたはずの声は消えなくて、それが今更湧き上がる事の重大さに対する幼い羞恥。どれだけ力を込めても唇が思い通りに動かない。上と下が離れたまま、刺激以上に音が漏る。
「こー、ち」
「あまり」
「…ぁっ」
「優しく、してやれないッ…」
鋭い声は、初めて聞いた。ボールの音に朗らかに伸びやかに厳しいあの声が、耳元で違う声になる。謝った理由?わかるはずがない。そうだ、
「コーチっ…うぁ、や、やっ…」
「――…やめるか?」
「嫌さ!や、っめないッ…」
"当たり前"な訳がないんだ。ようやく気付いた幸せが、憧れの腕の中で立ち上る。
辿り着いた思考が一切を手放した。
「こんなこと、俺っちだけって思ってたさ」
「こんなって」
「だからッ!……コーチは大人だから…毎日おかしいって」
何度か肌を重ねた頃に、唐突に腕の中で零した記憶。
「天爵だって一緒に寝てんのに…そんなの」
はぁぁぁぁっはっはは!盛大な溜息と笑い声が重なった。どっちがどっちだ!
「なんで笑うんさ!俺っち真面目にッ」
「いや、悪い…けど、天化にはどれだけ俺がいい大人に見えるんだ?」
少しだけバツが悪そうに、唇がそう濁した。まっすぐ見詰める少しだけ歳より幼い目も、短い髪も、耳も厚い胸も太い腕も、きっとあれは照れていたんだと今にして思う。
「俺だってしたよ」
「……コーチが?」
「ああ」
「……自分で?」
「…ああ」
「ほんとにほんとさ?」
「――何度も言うんじゃないっ!」
ふざけた大声で潰すみたいに抱き締められた、守られるベッドの中の居心地は、いつの間にか当たり前にそこにある。
end.
2011/09/20
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