「なに考えてるさアホコーチっ……」
上げた声が続かなかった、人間驚くと声を失うよ、と、腐れ縁みんなして盛り上がっていたのは在りし日の記憶。
「やっぱり俺にはスポーツだろうっ!!」
まさかとは思った。退職だって?バイトすら辞め逃した天化の耳には、理解出来ない世界だった。
新卒で入社した営業部でも、そこそこどころか群を抜いて売り上げたスポーツマシンの数々は、苦労も込みで知っている。渋る口が漸く話してくれたのは、天化の大学入学の頃だ。
「大丈夫だって安心しろ!もう入るジムとも話はついてるさ」
「そんな問題じゃ…」
「そうしたら天化といられる時間も増えるじゃないか」
勢い付いて振り上げたアッパーも捻りのジャブも、インストラクターが夢だったのはずっと昔に知っていて、
「そんな馬鹿な理由ってないさ…」
「お前も来るだろう?」
胸に顔を埋めながら頷いた。
「へへ…あほコーチ……」
どうして夢を諦めて、一番苦手だったスポーツ工学が専門の仕事についたのか、それは邪推なんだろう。多分、きっと。
「ん、行くさ。…次の土曜でバイト辞めるから」
腕の中のぬくもりにじゃれつくようにキスをして、伏せた頭が抱き締められる。次の土曜、一体どう説き伏せてバイトを辞めるか。必死にそれを考えた。
「ああ!?なんで今日っ…」
「だから行かねぇ。そもそもこんなに続ける気なかったし。誰のシフト代わったらこんな面倒くさいことになったんだか」
「……今日じゃなくてもいいじゃねぇかよ、明日は?」
ひとしきり暴れてみるオープンカフェで、とうとう寒さに負けたナポレオンの脛を軽く蹴った。
「だから行かねぇさ!行ったら止められるだけで水掛論じゃん!」
「明日にしろって!なー、俺今日デートなんだけどさぁ!だから無理!」
「あーたいい加減に…」
「せめて昨日言え」
「王サマそれで何回直前逃亡したさ?」
「…………だよな」
人手不足にさいなまれるだろう店長の姿が浮かんだのは本当だ。目の前の黒髪が困ってテーブルに突っ伏す事態も予想した。それでも、
「あ、なぁ、もう会員証とかできてんの?」
「うん」
「見して見してー!」
この興味が慌ただしく他に移るだろうことも、頼まれたら断れない性質も知っていて、
「いーやーさ!」
「カレシ専用かよ」
「まぁね、もったいないじゃん」
「このヤロー惚気やがって」
最終的に味方になることは、もっとよく知っている。ほらやっぱり。最後に立った親指に手を振った。
「中指突き立ててやったぜ!」
無理に笑ってひきつった声を聞いたのは、それから2週もしない頃。
「……他に彼氏候補、だってよ」
「だから」
"言ったじゃん、釣った魚にエサ。"――出かかった言葉を思わず飲み込んで、荒々しく息を吐く目の前の発を見た。
「普通二股かけるか!?」
「あんたがそれ言うかね」
「そうじゃねぇよ!!これから振るならもっとマシな振り方ってあんじゃねぇか……っ!」
論点はそこでいいのだろうか?首を傾げた天化の前で、テーブルに伏せた動かない頭が言う。
「"好きだけど無理"ってさ、……ビンタのがずっとマシだぜ」
「……そういうもん?」
「なんで……わかんねぇよ……」
「…うん、うー」
眉間の指摘をしようにも、絞り出したきり動かない黒髪相手に眉間が見えない。ひょっとして泣きでもするんじゃないか、それとも次に走るだろうか。半年で蓄えた悪友の解説書は未だ手元に残りはしないまま、天化の唇がカップに盛り上がるクリームを吸い上げる。ずるずる響く独特な音に、ふて腐れた独特な笑顔が重なったのは数秒後。
「ん?」
「お前、それもう既に食べ物じゃん」
「カフェモカは飲み物さ」
「いや、どう見てもパフェだろ…なんで太んねぇの?」
「女や王サマとは根本の構造が違うからっしょ」
そう言う口が弧を作る速さももう知ったこと、
「ま、そりゃそうか。今更だよな」
「んー、今更さ」
移り気な口がしばらくまっすぐ結ばれることも、
「……おら、カレシのジム行くんだろー」
悪態の脚がテーブルの脚と天化の脛を軽く蹴って見せることも。
「……んじゃねー王サマ、明日4限」
「わーってるって!行きます行きます!」
手を振るような親友でもなければ、労うような慰めるようなオトモダチでもないこと。
冷たい風に吹き飛ばされたブラウンの紙ナプキンが、丸い雫を受け止めたことは、きっと一生かかっても誰にも言いやしないだろう。
渡されなかった指輪がひとつ、遊び人の薬指だけを彩って、レンガに影を落としていた。
涙色のダイヤモンドは、日の光を受けてオーロラになる。斜めに日の刺すキャンパスでは、確かに重たい石っころだ。
思い返す数分前の情報を組み立てながら、天化のスニーカーが裏路地を踏み、街を駆ける。
あの日あのとき、彼のシフトが空いたままだとして、彼女を抱き締めに待ち合わせ場所に駆け付けていたら。あの日押し付けて自分が辞めなければ。自分がジムに行かなければ、そんなまさか、そんなの今更お互い様、過ぎたことは、走りきって忘れよう。
フェアにならない思考の渦は、きっと誰もが望む自分じゃない。
二駅区間の枯れ葉の歩道を踏みつけて、ランニングマシンの起動音に、首を振る天化の心音が重なった。
2012/01/18 end.
[ 2/2 ]