31



あの顔が広いお調子者からお調子を抜いた顔。それを見たことがるのはどの程度の人口なのだろう。
考えながら握る二つ折りの携帯は少し前に修理から返ったお気に入りの黒だった。
ダッシュボードで砕けたあの日。幸いデータは無事だったから、すぐさまここに折り返した。どうせデータが助からなくても覚えている番号は此処に一つなんだ――
「天化?」
覗く目もそのとき聞いたこの声も、
「おーい、天化ー?どうしたぼーっとして」
「……してねぇさ」
変わらず好きなんだろうか?陽の差し込むマンションで、短い髪を見ていた。
「してるじゃないか」
「してないさ」
好きなんだろうか?問いかけてみた疑問符は、
「……コーチは、俺っちのこと好きさ?」
「なに言ってるんだ当り前だろう」
返る答えに胸を撫で下ろした。じゃれて張り付いた広い背中は、出会った頃より小さくすら感じる。それは自分の成長の証なのだろう。少年が大人へ向かう一日一日を、きっとずっと待っていてくれる焦がれた背中の。いつか追いつくと決めた背中の、
「…へへ」
甘えられる場所。甘えたくない場所。吸い込んだ匂いは少し汗ばんだ慣れ親しんだその香りで、沢山の安心、共に立ち昇る慕情と幼い欲情も教えてくれたその人の香り他ならない。胸が締め付けられるのはこんなにも好きだからだ。ずっと慕い続けているからだ。言い聞かせた胸は確実に侵食されていた。
「無理してるんじゃないか?最近眠ってないだろ?」
「…ちょっとだけさ、レポート出したらまたちゃんとジム行くし」
一体なににだろう?
「バイトもまた増やしたんだろう?すぐ無茶するからなぁお前」
「だって仕方ねぇさー。王サマすぐサボるからその分一緒に入れとかねぇと王サマ」
「また"王サマ"な」
陽の差す部屋で冷蔵庫の閉まる音。手にしたペットボトルから注がれる冷たい麦茶の波しぶきに逆流する冷や汗の粒が、びっしり痛い。揃いの簡素なカップが。響いて止まない麦茶の跳ねる夕方の色も、張り付いた背中越しに時を止めた。
「……天化?」
背中から伸ばした腕は胸に回る。力いっぱい抱き締める腕に重なる手のひら、呼吸の音。
「コーチはなんもわかってねぇさ!」
大きな手。
「俺っちがどんだけ好きかとか!」
大好きな手。
「……っ、全然、なにも!」
重なる手は子供をあやす手は、二回三回、リズミカルに胸を叩く。求めて止まないその腕なのに。
「俺っちだけずっと、……まだ片思いみたいさ」
呟いた背中を吹っ切って走る秋風は、一段と寒さを増していた。


「で……それで出てきたのかい?」
「別にもともと一緒に住んでんじゃないし」
「まぁそりゃそうだね」
ジャンクに囲まれた部屋は既にヒーターの準備がされていた。いくらなんでもそれは早いだろう、そう問う前にコンピューターの動作環境における適正温度の話が零れる。この手の話は至極疎い天化が聞いていて嫌にならないのは、この人物が必ず自分の味方であるからだ。何度も同じ内対話を繰り返したこの数年。
「君も妬いてほしいんだか大人扱いされたいんだかさぁ…」
「どっちでもねぇさ」
舞い上げる湯気に胸が膨らむ溜息の音、紅茶の匂いにコンピューターの起動音。同じ性別でどうしてこうも違う種類の匂いがするのか、不思議に思ったこともある。
「でもよく続いてるよねぇ、君たち」
「……太乙さんって、前から聞こうと思ってたんだけど」
「もう3年だっけ?そろそろだよね、君たちの付き合った日」
ぶつ切りで流した文脈はお互い様換算なのだろうか。気にしないような間柄なのはお互い様だと知っている筈なのに、差し出された紅茶は久しぶりに味がしないらしい。寄った眉間に気づいて押し戻したカップは角が小さく欠けていた。
「…たぶんコーチは覚えてねぇ」
「覚えてると思うよ、天化くんだし」
「……なんでさ?」
「だから君だからだってば。だから3年続いてるんでしょ?4年だったっけ?」

答えになるのかどうなのかあやふやなボーダーを踏み越えられるほど、言葉に長けた覚えはない。溜息のデュエットは、毎度毎度遠慮したいと思うのにここにしか逃げ場がないのもまた事実。書類の山を蹴散らさないスキルは身に着けただろう。
「前から聞きたかったことがあるさ」
もう一度絞った声は予想以上に強張っていた。
「なんだい?ああ、私まだ隣の部屋のセットアップ終わってないんだよね、ながら話でいいかなぁー」
予想以上に饒舌な口から得ることは、ある程度それがこの人物にとって都合の悪いことだから。――その癖を指摘して笑ったのは昔からの腐れ縁、
「コーチの昔の恋人って知ってるさ?」
現恋人に他ならない。
「ええー?ああそんなこと?知ってるもなにもねー、そんなこと興味がないし。いなかったんじゃないの?もう少し実のある話かと」
「…コーチは初めてじゃなかったさ、俺っちのこと」
「まぁ何もかも知ってるって訳にも行かないしね。そもそもそれを私に聞かれてもどうしたらいいのさ?」
「なにか知ってるんじゃないかって」
「だから知らないって言ってるのに…あったとしてももう終わってるでしょ。道徳にそんな甲斐性もないよ、ほら!私じゃあるまいしね!」
そこまで言われて二の句を告げるほど長けちゃいない。頭を垂れたこの子供はいつだってそうなのだ、
「だから信じていなよ、君たち似た者同士なんだし。せっかく今隣にいるんだから。なんなら生涯保障書つきで私が保証するよ。どう?」
言葉通りにしか受け取ることが出来ないから。考えれば考えるだけ苦手になる袋小路の恋愛観、止まったままの恋愛年齢。胸の中の小さな疑問符は今日もその言葉の前で立ち止まる、
「あ、ほら噂をすれば」
迎えのワンコール。
「……うん」
本当は続きがある筈のそのコールを、一回で切るのは二人の仲直りの照れ隠しだ。意地っ張りがまた突っぱねない為に。ごめんなさい、は、二人で顔を見て言う為に。もうずっと決まり事。それでも意地っ張りの誰かが無視すれば、太乙宅に迎えに来るジャージの姿がそこに加わるのが一番大きな場合のセオリー。今日もまた笑顔の背中が駆け出した。少しだけ喉に引っかかる味のない紅茶を咳払いで飲み込んで。

「……もう〜!…恨むよ道徳…!」
呟きは立ち上がったモニタの光の独り言。


"二人共、短絡思考だから助かったようなもののさぁ。"


end.
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