少し前から浮かべていたクエスチョンマーク。確かめはしないそれが、秋風に吹かれてレンガに落ちた。
「……やってない?」
「いや、だから…マジでどうしよう」
あの海の日から早くも数週間。平常授業に戻り始めたキャンパスで、流石に単位を気にしだしたのがこの二人。毎日毎日景気良く回り続けるシャープペンとボールペンに、鳴り響く携帯電話。そう言えば消しゴムの姿はもう長らく見ていなかった。
「どういうことさ?」
「だからよ、実際いいとこまでは行ったんだって!付き合ってんのもマジなんだけど。キスもした。」
「それでなにもしてないって?」
「……うん」
うな垂れた元ナポレオン。今こそそのジャケットの季節のはずだろうに、いい子に決めたテーラードがより一層うな垂れた。下がる眉毛に思う、こんなに素直な人だっけ?天化の溜息にあわせて緩む隣の頬は、惚気なのか悩みなのか、それすら定まらない声を続けた。
「だってよー、そーゆーのって重要だろ女の子には」
「それに今更気ぃつくってのもどうなんさ」
「まぁだから…あの日もそのまま帰ったわけ。……ちゃんと会いてぇし、…好きだって思ったらさ、無理じゃん。できねぇじゃん。無理だろ」
「……はぁ」
予想外なのは天化の方だ。幸か不幸か、誰かと違ってこんなときにはやし立ててやる才能はないらしい。アソータティブ・メイティングの思考はこんなところで役に立つ。いつも理系の勉学と言葉に長けた友人二人に突付かれているあの人と似てるのか。うな垂れた目の前の腐れ縁にばれないように少しだけ頬が緩む。
「まぁ、王サマにもいい経験ってことさ」
「今度デートなんだけど」
「ああ」
「ハリー・ポッターってまずいと思うか?」
今度こそ二の句もなにもつげなくなった。拍子抜けの目の前で代わりばんこの眉間の皺は、高い方の背に移住したらしい。
「王サマってなんつーか…」
「やっぱまずいかよ?インディージョーンズの方がいいかな?でもアクション嫌いだろ?」
「いや…たぶんどっちも違うし。それはあんたと彼女の関係によるさ」
「いやだからそれがっ…あ゙ーーー!!!」
とうとう頭を抱えたその拍子にボールペンまで転がった。一体どの順番を通ったレンアイなのだろう。あの日確かに避妊具をねだったのは間違いじゃない。アイスコーヒーをすすりなおしたその口で、机に突っ伏す身体を見ていた。
海からこっち、飲み会が少なかったのはその理由。着信を聞く回数も少ないのは、この遊び人が自発的に発信するからだ。きっとそう。少しの違和感と納得を租借してベーコンサンドを追加した。
「だけどもうどれだけさ?釣った魚にエサって言ったっしょ?」
「サカナって言うなよ!!」
叫んでもたげた顔にも目にも嘘はないこと。人に嘘をつけるほど器用な繊細さがないこと、とっくに知った遊び人の顔。小さく詫びたらまた曇る表情。どれがその本来なのか未だ見えないキャンパス脇のオープンカフェで、男二人がお手上げ状態、頭を抱えて仰け反っていた。
「こないだ会ったときにさぁ」
瞬時に変わる惚気顔のすばやさに、少しだけ得た安心の類。どうもこのお調子者が嘆く姿は見たくないらしい。そう思う自分が随分お人よしなんだと気が付いたのは最近だ。
「サーティーワン行って」
「……ふうん」
「でもラブポーション頼めなくってよ!やっぱ重いだろ?」
「はぁ!?」
上ずった天化の声に集中した店内の視線が、5秒の沈黙で散って行った。
「…お前でけぇんだよ声が」
「ごめん。…んで?」
「ああほら、あるじゃねぇかよ限定のラブストラックとか。あれってやっぱ名前的にハードル高いと思わねぇ?なんっか当たり障りなくとか思ってホッピングシャワーにしちまってさぁ…ダサいよな」
少し前から浮かべていたクエスチョンマーク。
「ダサいかどうかじゃないっしょ…王サマって童貞」
「ばかやろ15で卒業済みだ舐めんなコラ」
「別に歳聞いてんじゃねぇさ!」
確信に変わりだした一連の疑問と違和感が、コーヒーの渦に溶けてきた。
「……ラブストラックってアレ限定だろ?それまでにもっかい行くっつったら飽きるよな?マンネリだよな?」
「デート自体マンネリかどうかじゃなくてアイスに飽きるかどうかさ」
「ゔわ゙ーやっちまった!しくったマジで!!」
「…そういう問題じゃねぇと思うけど」
どうやら止まっている。
「…なぁ王サマ、サーティーワンってどんな感じさ?」
「あ?」
ここのペン回し二人組みの、
「俺っち行ったことねぇからイマイチわかんねぇさ。コーチそーゆーの行かないって言うし」
チグハグな恋愛感と恋愛年齢。
「ああ、んじゃあ今度食いに行く?」
「うん」
「作戦会議しよーぜ、お互いさ。お前もカレシと行けたらいいじゃん」
「……うん」
八重歯の覗く満開の笑顔の前で無意識にワンテンポ遅れた賛同と肯定のその二文字は、落ち葉に紛れてカップの底に張り付いていた。
疑問に思わない筈がない。それでも遠まわしに避けていたのは事実である、年齢相応の文字。そもそも知り得る可能性がない場所にいた。それを望んだのは自分、最初に手を伸ばしたのも自分、今更もどかしく思うのも自分なら固執しているのもきっと自分一人だけだろう。こどもくさい要求はみんな飲み込んできたから。黙って映画を見る性質でないのは二人共で、甘いものが好きなのは自分だけだ。酒が飲めるのは恋人一人、加えてつるむ腐れ縁。
胸が痛いのもきっと自分だけなんだ。想い続けてもう何年だろう?歩くスニーカーが隣の靴の爪先を蹴った。
「…あんだよ」
「なんでもねぇさ」
「ケンカでもしたんじゃねぇの?皺できてんぜ皺ー。眉間」
「別に」
「そーゆーのが一番怪しいんだって」
タイミングがなくて辞め逃したバイトも今日は休みの日。結局行動力と瞬発力に長けた男二人がアイスを片手に小さい椅子に収まっていた。
「最近食道楽だよな俺ら」
「でも王サマ飲む量減ったさ、まぁ当り前だけど。まだ19だべあんたも」
「まーぁね、いいだろ。大学生の権力行使。しなきゃ損だっつう、な」
踏みつける脚に意味はない、コーンの上で歪に傾くアイスの不穏な気配を喉の奥に飲み込んだ。最初にきっかけを作るくせにそれ以上の話を広げないのは、何故だかこの人物の癖らしい。その距離が心地いいからそれ以上には追求しないのも天化の癖だ。
「……うまいかよ?」
「んめーさ」
「おー、やったじゃん初体験」
たいした感動でもない筈なんだ。当り前の筈なんだ。ただの腐れ縁。
ダブルの二つ山。カラフルなアイスの向こうに覗く笑顔は、いつもほど愛想よくも気張ってもいない、ナンパ常習のとってつけでも格好良くもなく、特別なものはなにもない顔。つった眉に大きな目。高い鼻筋にかかる伸びた黒髪は、数日前に少しだけそろえたらしいこと。特別なことはなにもない。
「──……」
特別じゃない?
「…あ?なに?」
冷たい氷を噛み砕く奥歯が少し痛んでいた。眩暈の片隅で問い返す声に答えられる筈がない。いつの間にかバニラに塗れた唇を見つめてただなんて。
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