ナンパに消えるナポレオンの背を見送って、そもそも見送る必要がなかったことに今更気付く。自販機の冷たいペットボトルで身体を冷やす。流し込んだスポーツドリンクにおクリアになる視界の範囲。その隅の夕陽が沈む時間の校門前に、見慣れた短髪とスーツが見えた。
「……えーっ…」
こんな時間に?なんで?思うより先に走り出す脚は今日もスニーカーだ。
「天化ー?それ誰ー?」
「え、あ、あーっと、兄貴が上京してて」
「ああ、なんだ」
興味と他意に溢れたスロープの上のクラスの野次馬の声は、取って付けの言い訳にすぐさま散った。
「もう!くるなって言ったさ!!」
自分だけスニーカーなのはやっぱり嫌い。
「来るなはないだろう!」
駆け出す先に待つ広い肩のグレーのスーツが、笑顔を広げて待っているから。嬉しいキモチの片隅はゲンキンなもので、胸に飛び込めない決まりだけ、夕陽と共に飲み込んだ日。
「走って帰るかー!」
「その前になんか食べたいさ」
「よし豚丼!」
「やった!」
回路が似てる、その当たり前はやっぱりなによりくすぐったい。今日の土産は王サマのフラれ話にしようと決めた。
また昇る太陽に、黒いカーテンの階段教室。やる気の起きない夏季ゼミの申込書を掘るシャープペン。……大人になれると思っていたのに。大学と言う場所が、もっと劇的に変化をくれると思っていたのに。存外変わらない勉強に考査に、すっかり溜息を吐くのも忘れる午前最後の講座中。
「天化、顔」
「なんさ」
隣でくるくる回るペン先が、すぐに眉間の間を突いた。
「ほら、すげぇコワモテ」
「うっさい」
そう言う隣は相変わらずに雪崩れた顔つきで、八重歯の覗く大きな口を惜しみなく左右に広げている。伸びてきた前髪はどこから出したのか、赤のピンで左に流して止められていた。
「……王サマそれ」
「ん?ああ、可愛いだろイチゴちゃん」
「きもちわりぃの間違いじゃん」
「ウケるって絶対!年上ウケ?ほら、守ってあげたい男子的なー」
「そんな柄じゃねぇさあんた」
子供くさくて受けないだろう、とは言ってやらない。少しだけ鋭くなった教授の目に、慌ててテキストの間に顔を挟んだ補欠が二人。
「自分で見つけるから!」
そう言ったのはあの雪の日だ。
それから何日経ったのだろう。
一向に道徳に報告出来るような手柄もなければ目標もない。サークルにすら入らないと言ったとき、ほんの微かに曇った顔はまだ忘れられないままでいた。
一体ココに、なにをしに来たんだろう――?
「眉間」
肩をつつく隣の声。みーけーん!皺!楽しそうなヒソヒソ声が心配そうに覗く教室で、時計の針が午後を刺した。
「お前、なんかヘン」
「なんでもねぇさ」
どうしてこの人は気付くのだろう?わかりもしない癖に。自分の行動ひとつわかっていない癖に、周囲の変化にだけは人一倍敏感なその顔が、今度はテキストに埋もれていた。
「ねみぃ…」
「後で範囲聞いても教えないかんね」
「…ゔー…んじゃ起きる」
一体なんなんだ。その速さにいつも戸惑う。心配のわりに自分の感情を優先するその口が、欠伸に伸びる残りは10分。退屈な授業に回るシャープペン。
自分に正直に。
確か昔、恋人になる前の大好きな声がそう言っていた。正直に素直に、自分から願って行動しなきゃ勝利なんてあり得ない。だからいつもでも、貪欲にいなさい。
そんなこと。刻んだのを思い出す。だから前を向こうと決めたんだっけ。
「……似てるさ」
「あん?」
「俺っちと王サマ」
「そうかぁ?」
「うん、多分」
正直にしか生きられないんだ。気付いたら可笑しかった。
「なに?話見えないんだけど」
「あんたバカだからしょうがねぇさ」
「なんだよコノヤロ…もうサラダやらねぇぞー」
こどもくさい、多分。目の前でぶすくれた前髪の赤いピン。張り切りすぎて尖った革靴にスニーカー。
「王サマ見てっとほっとするっちゅーか」
「癒し系発ちゃんってイケるかな、俺」
「それは無理っしょ」
「はぁー?わっかんねぇな!なんなんだよお前はぁっ」
盛大に響いた教授の咳払いに、二人して縮こまってテキストの間に笑っていた。子供の時間は、きっと初めての時間の流れ。教室の匂いも時計の音も、周りの大人より一回り子供の足音がする。
「なぁ、海行かねぇ?行くよな?」
「なんでさ?」
聞かずとも目的はわかりきっているその声が、少しだけ勝ち誇った声で笑った。
「昨日のカレシに怒られるって?」
「――……は」
「え?違うの?昨日の校門いたヤツ」
耳元の声に瞬きを忘れた目が、今度は息を忘れていた。言う、言わない、認めるべきか、否か。
「……王サマ、それ」
「ああ、いや、言わねぇよ!言うわけねぇだろ!」
「…ならいいけど」
走り出した心拍を置いて、恐らく本当に他意もないだろう八重歯が無邪気に笑う教室の、二つ並んだ一番後ろ。
「お似合いだよな。確かにありゃー似たもの夫婦っつーか」
「…そ」
胸が跳ねる。
「……そうかね」
「おう、いい感じの爽やかカップル!」
「……うん」
八重歯にオマケして付き立てられた親指に声が迷う。鼓動が走って止まらない。思わず突っ伏したテキストの中で、近付きすぎた文字がぼやけて迫る熱さと共に。
「んな照れるかよ」
「…初めてだから、そんなの言われたの」
「……隠してる、っつうこと?で、認識あってる?」
「まぁね」
「大丈夫、任せとけ、俺口堅いからよ!」
自分発信で話し出した輩に一体なにを任せるんだ。そうでも切り返そうとした口が、そうは出来なかった。それは多分、ようやく誰かと共有した嬉しさと、恥ずかしさと。想い出も悩みも詰め込みきった子供の胸が微かな支えを見つけた日。時計の針がまた進む。
「王サマ?」
「んー?」
「…その」
「ああ、聞く聞く!授業終わったらどっか行こーぜ?」
「うん」
前髪と腕の間から覗いた隣の腐れ縁の、ファンシーピンが揺れていた。
「…んで、まぁ、コーチと部員だからってこと」
「ゲイだからってのじゃねぇんだ?」
あまりに丸太のまま放り投げた言葉の後に、
「あー…わり、偏見とかそーゆーのじゃねぇんだけど」
「別にそんな気ぃ使わなくていいさ」
空気の流れには敏感らしいその笑顔。本当にそうなら先に気が付くべきじゃないのか、とは言いもしないけど。生まれて初めてのその理解者は、飲みかけたアイスコーヒーのストローを咥えた頬杖で頷いていた。氷のささやかな乾杯と、手を冷やすグラスの水滴が心地いいオープンカフェ。天化の右手がひそひそ声の顔を扇ぐ。
「保護者と未成年者ってことになっちまうから」
「そんなの結局大人の都合じゃねぇかよ」
「そりゃそうだけど」
「まぁ、仕方ない範囲ってヤツなんだよなー」
勝手に同調して怒った声が、また同調してうな垂れる。それだけでなかなかに楽になることを、わかっているのだろうかこの遊び人は。飲み干したフラペチーノのカップの底に残しておいた生クリーム。
「俺っちがまだ16だったかんね」
「16かぁ…まぁ、え、じゅうろくぅぅ!?」
肯定の変わりにストローで吸い込んだ白い塊が、途中でつかえて動きを止めた。
「……コーチも就職したばっかだったし、大会控えてるし」
「え、え、え、ちょっと待て!んな離れてるか!?あれ?高卒就職?」
「は?」
「昨日の、離れてて3つ位かと思ったんだけど」
「七つ差」
「ななぁ!?」
「あんたさっきから驚きすぎ」
「いや…なに、やるなお前…」
訪れる沈黙に、アイスコーヒーのグラスの下で、ストローの袋の亡骸が伸びる。同時に伸びをした発の腕が、頭の後ろに収まった。
「でももうちょい近く見えるけどな。マジでよ」
笑う声が下手なお世辞を言わないことは知っているから。慣れない賛辞に昇る頬の血。
「体格良さそうだったけど可愛い系じゃねぇ?」
「まぁ、どっちかっつったら…」
「あーあ、やっぱお前ベタ惚れだよなー」
いいねーあついねー。続く語彙が少し古くて、きっと恋人の世代と似ていた。
「王サマも年上ばっかっしょ?」
「……あーまぁな、ほら、大人の色気派だからよ」
顔をかきながら言うときは、
「照れてる王サマってきもちわりぃさ」
「うるっせぇな俺だってきもちわりぃよ!」
わかってきた本音のとき。追い討ちをかけるアイスコーヒーが吸い込まれて消えた。
「……天化見てると幸せオーラ出てるからー」
「……なんさそれ」
「いやぁ、そのオーラでお前ムダにプリンちゃんポイント高っけぇんじゃねぇ?すっげぇ甘ったるい」
笑い声に照れた鼻。残りのホイップをかき集めて飲み込んだ。
「良かったじゃん、初恋叶って」
「……うん」
「上手くいけよ、お前はー」
「言われなくてもいってるさ」
「おうおうあっついな」
"お前は。"
ひっかかる違和感が喉を通る、生クリームの道。甘ったるい会話の秘密が嬉しかった。
「いつさ?海」
「ああソレ!そうそう夏休み入ったらありったけバイト代集めてよー、それからー…」
笑って頷くその向かいで、オーバーアクションの両腕がおかわりのコーヒーを呼んでいた。
end.
2011/10/07
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