「それ…道徳には言ったのかい?」
素っ頓狂な声を上げた後の沈黙は10カウント。困り果てた西日の刺す部屋で取り囲むコンピューターにジャンクの山が、広がった数学の問題集を固唾を呑んで見守っていた。
「言う訳ねぇさ!ぜってー反対されっから!」
「ならなんで私に言うかな…」
柔らかい溜息がまた10カウント、後。細い指が左サイドの髪をかき上げる。その沈黙が苦にならないのは、この秘密を知る共通の年上の友人が天化の敵になったことは未だかつてないからだろう。飲み干したダージリンは、そう言えば味がしないらしい今日。
「それで君が後悔しないならいいけどさぁ…」
どうしてこんなに華奢な人が長年あの人の親友なんだろうと、思ったことがない訳ではない。素直に聞いたら、腐れ縁だ、と笑い飛ばしていた。
「しないさ、もう願書も書いたし」
シャープペンの芯がノートを彫る。木枯らしの吹く10の沈黙。
「……出したの?」
「……出しちゃない、けど」
「少し休んだら方がいいよ。今日は泊まるかい?」
「へっ…」
「え?えーっと…なんか私ヘンなこと言った?」
また過ぎる10は、きっと数え忘れた。取り囲むデジタル時計は音もなく進む西日の部屋で、太乙の指がカーテンを引く沈黙の音。――雪だ。白黒が反転した頭の中が5分前の数式に埋め尽くされて、目の前の顔と数日前の恋人の顔を行き来する。
「太乙さんはそれでいいさ?」
「一本書かなきゃいけない仕事はあるけど、その間自由にしてくれてたらいいし」
あまりに当たり前に返す声に、身体中が混ぜ返された。なんで、なんで――背もたれについていない筈の背中が痛い。
「ああ、そうだごめん!せっかくなのに今日に限って手抜きご飯になっちゃうけど」
「それって…そんなに簡単に言うことさ?」
なんで――
「え?」
言いかけた言葉を飲み込める程子供じゃない。ああ、とだけ相槌を打つその人が口惜しかった。負けず嫌いに育ったのはどっかの誰かのスパルタトレーニングの所為なのに。この場所と、離れたコートが足元でリンクする不思議。今、そのコートからもっと離れようとしてるのに。口惜しいのにわからない。
「それはさ、私と道徳じゃ責任が違うんだよ」
「同い年さ、コーチも太乙さんも」
子供にはわからない矛盾。年齢が同じだけでいとも簡単に同じフィールドに立てるんだ。それが一番、
「だから…それは君と道徳の関係が、だから」
「俺っちはそんなの全然思ってない」
悔しいのに叶いっこない。
「知っているだろうけど大人には未成年を守る義務があるんだよ。私は君の保護者になり得るけど、道徳とはそうはいかないでしょ」
「そんなの大人の勝手さ!俺っちは…――!!」
回転式の椅子が鳴いた。痛い背中が軽くなる。
「……続きは道徳に言ったら?ちゃんと。話せるよ、君なら」
立ち上がったからだと気付く頃には、脚が待ってくれやしない。
走り出した息が止まらない。言いかけた言葉も走り出す。木枯らしの中で、忘れたお礼と勉強道具一式が浮かぶ夜の街路樹。そうだ。どうしたらいいか、それを教えてくれたのは他の誰でもない、
「コーチ!」
「天化っ…どうした珍しいな」
寄り道しかけた道徳のマンションから行き先変更。混ぜ返される二酸化炭素で駆け付けたオフィスビルのエントランスに、顔いっぱいで喜ぶ人がいて、
「コーチ、…俺っち」
「うん?ああ、定食屋でいいか?いやー腹減ってなー」
ネクタイを緩めるそのスーツを、感じる7歳差を避けていたのは他ならぬ自分だと、
「俺っち体育大受けんのやめにするっ…から、」
踏み出した一歩は初めての試合に似ていたと思う。夜のクラクションにバックライトの流線型。軋む街路樹に風の音。丸くなる瞳が照らされて振り向いた。
「ずっとコーチが目標さ!それは変わんねぇ!!……けど…」
叫ぶ声は既に吐露だ。"伝わるかどうか"より、
「同じトコ行ったからって勝てるかどうかなんてわかんねぇし」
"伝えたい"か、どうか。
「先生にゃ悪いけどスポ推も止めにする。ちゃんと自分で見つけっから!!だから…」
それを教えてくれたのは、
「100%頑張ってそんで、そんでずっとコーチといたいさ…ッ…」
今目の前で、顔をくしゃくしゃにして抱き締めてくれる道徳だ――。
「天化…」
呼ばれる名前があたたかい。
「……少し早いけど…今日が本当の卒業式だな」
耳元の声には震えなかった。それより強く抱き返したから震える隙間なんてありっこないんだ。
「コーチ…」
「俺だってな、……いつか追い越されるんじゃないかと思ってたけど」
きっと、この街路樹は忘れないだろうと目が言っていた。耳が知っている。五感が全部。
「お前にそんな決断されちゃもう甘えられないじゃないかー」
肩に埋もれる短髪が、スキ。
「……そんなの今まで通りでいいさ」
「違うだろう」
"もう子供じゃないんだから。"
"おめでとう。"
密やかだった?叫んでいた?
わからないくらい愛しい声を抱き締めた記念日。
「応援はさせてくれよ」
「イヤさ、メガホン持ってくるじゃん」
「なら裸一貫でハチマキ太鼓だ」
「もっとイヤさ!」
「よし、飯食いに行くか」
「俺っち天丼定食と鯖味噌煮ね」
指を繋いで歩く真っ暗闇の街路樹で、笑い合ってキスをした。多分10秒数えるくらいに。
end.
2011/09/20
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