遠くで聞こえる蝉の最期の合唱はいつか天化も聞いた声。今も、昔と違うその場所で――憧れたその高校の第一体育館で、聞いている。あの日から死に物狂いで駆け抜けた。高校入試に新生活に、入部届け。漕ぎ付けた高校1年、文化祭の交流試合。つけたゼッケンは1番、青のポイントガード。
だん、だん、だん。
ボールにシンクロする鼓動、バウンドに耳の振動、支配されて研ぎ澄まされる五感の切っ先。大丈夫、今なら抜ける、コートが見える。
だん、だん、だん。
女子の悲鳴と男子の応援、同年代と保護者のひしめく体育館の……――何故だか見上げた二階のベンチに、信じられない。
――……あのひと、あの人さ!
脱ぎかけた黒のスーツの影を見た。隣の席に放り投げた上着に白いYシャツ、緩めるネクタイ。目が、合った?
だん、だん、だん。
走り抜ける高揚は隠しておくもんじゃない、ぶつけなくてどうする。今しかない、今なら抜ける、どこまでもクリアに続く視界の先のゴールがひとつ。相手が5人、見方が4人、知ったこっちゃない。
――ベンチにいる、あの人が居る。踏み越えたラインはマイナスゼロ戦。届かない訳がない。走り抜くドリブルに放ったシュートがネットに消えた。
「おいおいアイツ……まだ1年だろう?」
ベンチで呟く黒い短髪。握り締めたパンフレットとOB会の招待ハガキが汗で波打った。確かに記された"一年生交流試合"のタイムテーブルは、何度確認しても揺るがない。
「すごい……んだろうね、私が見ても凄いんだから」
隣に座る黒髪がそよぐ、線の細い前下がりボブ。
「ドーピングの兆しもないようだしねぇ」
細める目が妖しく光る左隣。
「……こりゃー俺も出ればよかったな」
チームプレイタイプじゃなさそうだけど、俺が教えたらもっと高く飛べるんじゃないかあの子。驚きと苦笑が期待に変わる。
「面白い」
活発に笑うその顔が、好戦的な眼に変わる瞬間。驚いた天化の瞳は次の日曜のコートの上で、果たされたファーストコンタクト。
正式なコーチ、ではない。OBだから。他に毎日仕事もあれば日々趣味のジム通い。その合間を縫ってでも、遊びにくる価値は十二分にあるだろう。季節が紅く染まる頃には、すっかり土日の体育館に定位置が出来たかつてのキャプテン、道徳。
「天化、もう少し上を見ないと!」
「上さ?」
「そう、ホラ!レイアップの放物線の先を見ろ!上!じゃないとそこで拐われるぞ!」
走り抜ける小柄なその後輩は、想像以上にストイックな無鉄砲だった。そんな所が可愛い子に変わりはない。まさか。相手のタックルで思いっきり吹っ飛ばされた瞬間鳴り響いたホイッスルに、俺っちそんなヤワじゃねぇさ!――そこで噛み付くヤツだとは。一同の溜息と共に、またテクニカルファゥル。自滅してどうする!
上を見ろ、前を見ろ、先を見ろ、言いたいことは山程あった。飲み込みも早い。
「だから揺さぶりをかけるんだ。」
同じ1番、ガードの命はパス回しの俊敏さに正確さ、ありとあらゆる瞬発力。最後に知力。
「全員センターまで上げて集中得点決めた後に、お前がライン越えてそこから3ポイント決めてみろ。相手は誰までマークすればいいか見失うだろ?」
――だからそれはギリギリまで取っとけよ!天化がチームの最終兵器だファイト!
赤い頬で大きな目で、力強く頷くその子の成長は早い。どれだけ慕われているか。嫌な訳がない。パチンと合わせた手が熱い。見詰める目には嘘がない。
……気付かない筈がない。どれだけの想いで慕われているか。
「コーチ!」
走り寄る嬉しそうな黒髪を、ノリで撫でれば跳び上がられた。ああ、仕方ない。触れたい、触れられない、当然後者。立場と歳を考えろ。触れてどうする、手にしてどうする、膨れ上がる混戦の恋心。こんなに子供だったっけ?ふと、走り抜ける天化を見て、我に思う。道徳が抱く手懐けられない恋心の方が、きっとよっぽど子供に近い。
――今日が最期だ。
言ったら噛み付くだろうことは容易にわかる。いつも通り。笑顔で真っ直ぐ、指導を終えたら帰ると決めて、二度と来ないと心に決めて。波のようにじゃれ合いながらコートを去る後輩たちを、ただ見送った。
「……、久しぶりに飲むかな」
自分で決めた小さい失恋に、苦笑を引き連れたひとりきりの更衣室。
「コーチ!!」
「ぐわッ!!」
不意打ちで背中にぶつかった塊に吹っ飛ばされる。
「……なっ……お、天……」
わけがわからない。頭の片隅で再生されるスローモーションが、色を失って初めて気付いたその構図。うつ伏せにされた身体を捻って、起き上がった堅い腹筋の上。
「俺っちだけのコーチになって欲しいさッ…!」
言っていること、やっていること、無茶苦茶なのは承知の上で。正座をしているタックルの主が、真っ赤になってただ見ていた。
おいおいおいおい、……!
そう言えばそう言うタチの子だった。蓋を閉めた瞬間にカサブタも理性も剥がすそんな後輩。
「……コー、っ」
どれだけ葛藤しても理屈が通じない訳だ。衝動で動くのは似た者同士。重なり合わせた唇に飲み込んだ歓喜の吐息と、一瞬で入れ替わった二人のポジション。下敷きの真っ赤な顔が、瞬きを止めた白目にクリアな膜をたたえて縮こまっていた。
瞬く間に再び入れ替わるポジションは成人と子供。責任感と無知の知。想う気持ちは同じだけ。
止まれ、とまれ、とまれ!
三回心に呟いて、抱き起こせば無下にくっつく。もう一度、優しく優しく言い聞かせるようにキスをして、両肩を掴んで引き剥がした。
どうしたものやら。
溜息と共に、とんでもない最終兵器を手に入れた23も目前の秋。
その唇まで、マイナスゼロ。
end.
2011/09/20
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