血潮




どうして、今だけ。離れたりしたんだ――

一瞬の後悔が判断力を鈍らせる。
「戦場に待ったはないぞっ!」
親愛なる師の声だった。
「よく帰った…」
目標とした父の声だった。

「うぁああ殺されるぁあ!!!」

晴天に響き渡ったのは護ると決めた王の叫び声だった。

「いやだあやっぱり死ぬのかぁあ!!!」

いつも通りが穏やかに流れるはずのその城で、その街で、露になった妖気が渦巻く四人の襲来は、伝染させてしまっただろうか、恐怖の類を。――あまりにその人はいつも通りだったから。

「武王姫発!我々と来てもらうぞ!!」

そう言った覆面の剣士は、背中に走り抜ける快感を孕んだ声で呼んだのだ。もう自分が呼ぶことの出来なくなった主の名を。
「なんだい、広い場所の方が戦いやすいってことかい!?」
あの人は逃げ足だけは早いと思ったんだ、確信していたんだ、その類の恐怖を受け止められる人だからと。細胞と言う細胞を総動員させて屈伸した少年の脚が、二人で歩いた回廊を蹴る。確かに感じていた――前戦に繰り出す昂りと四人を前にした恐怖に、その人が逃げ切ることを、飛び上がった屋根で剣の残像に祈った。
「我々は現実主義者でね」
こだまする。口に広がる赤い味は自分への悔しさだ。戒めなんて言葉を使えるほど平静じゃない。
「ここからだと武王の動きが一目瞭然だろう?」

「行かせねぇさ!!!」

踏み込んだ想いも本当だ。勝てる確信。突如舞い降りたあの覆面の剣士の剣は、父が使っている剣と同じ程の長さだろうか。戦況を読むこと――勝率は高い。
膝の裏の細胞が思考より早く動き出すのは身体に染み込んだ勝利の直感だった。反動を着けて蹴り出した左足の瞬発力も、振り上げるより早く前に押し出した右膝の一歩の強さも、高揚する両肘を引き絞って受けたその剣に、確かにその感触はあったのだ。受け止めた、受け止めた、敵の間合いで、
「だがこの青雲剣はただ斬れるだけではない」
その冷たく劣化した声を何処で聞いたのだろう。
――一瞬の後悔が判断力を鈍らせる。
「わかったか?」
見下ろして下卑た笑いを浮かべる声が、確かに現実主義者たる声だった。鋭利な風に咄嗟に自分の掌で身体ごと抱えるように蹲って気付く――腕が、切れている――?

全身の痛みは思考を遮る。ダメだ、踏み込むな、今は人命を、
「ちっくしょ…」
交錯した思考は飛び起きた身体に交錯して走った、掴まれる、踏まれる、千切れる痛み。引き裂かれる、
「うあ…!」
目の前の顔が楽しげに歪んでいた。ダメだ、負けらんねぇ……王サマが、王サマが―!
「っああぁぁッ」
自らの腕を引き千切りにかかるその男。快楽に歪む唇が覆面の下で悦んでいた。そんな奴に、どうしてそんな奴に!背に軋む瓦を感じれば痛みは飛んだ。恐らくもう感じないのだ、この少年の、天化の身体では。走り逃げ去ろうと駆ける背が、何度も自分を気にして振り返っていることを知る由もない。また引き裂かれたのは両の膝。

どうして、どうしてあの人は振り向いたりしたんだろう。
どうして一人で行かせてしまったんだ、どうして護れなかったんだ、どうして譲れなかったんだ、どうして見誤ったんだ、――

いつもの自分なら屈伸ひとつで跳ね上がる屋根と屋根の距離。実際街に駆け出す王の背中をそこから追って未遂で捕まえた事だってある。ここしばらく住んでいたあの城が、回廊が、彼の父が、兄が、遺した場所が、――この庭で確か初めて人をはねたんだ。あのちゃらんぽらんに笑う憎めない弱い怖がりな人を――

思考の渦が、王が囚われたことを随分遅れて察知した。

「…っぐ」
「面白い」

今一度起き上がれと指令を下した全細胞が、なにひとつ思い通りに動きやしない。隣に忌むべきその男は立っているのに、何故。ヒュ、と、小さく喉を通った乾いた風は、その後の呼吸の一切を拒んだ。恐怖の回路ももう働きはしないだろう。
…立ち上がれ、なんの為に闘ってきたんだ。あの幼い日の決別は、こんな所で終わる為にあったんじゃない。立て、後一歩を…!呻いた天化の頭上で、魔礼青と名乗る男の覆面がたわんだ。酷く楽しげに。

「貴様、武王の女か」

なんと言った?

「匂うな、――黄天化。弱々しい女の匂いだ」

下卑た笑いと囁きに、全身の血が真っ逆さまに沸き立って墜落する様を、神経の奥で感じていた。

「この二人の命と引き換えに周の道士は皆投降してもらう。」

引き金になったのはその声だった。
蘇りかけたその人を危険に晒している恐怖が、助かる可能性があることを片隅で理解するや否や、轟音に色付いた世界は暗闇へと消えた。









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