涙雨




「そんなのおかしいさ!」
確かにそう言った。はやし立てる十になる程の子供達の声に、慣れ親しんだ朝歌の街、飛んできた棒っきれに堅い石。顔をくしゃくしゃにした天禄兄貴が、やめろよ、と、穏やかに牽制した声。逆光に見えるその足が震えていたのは、きっと一生忘れない。
「天化は見世物じゃない!馬鹿にするな!」
穏やかな兄が言い放った言葉も、
「僕の大事な弟だ!」
きっと忘れないだろう。あの日も桜が舞っていた。

大丈夫だと、言おうとして言えなかったのは何故だろう。

その後だった。涙を湛えて歯を食いしばった兄の脚と、困り果てた父の顔。方々に散ってゆく子供の群れ。母は何も言わず兄と自分を抱き締めて、いつもと変わらず愛してくれた。撫でられる髪の心地良さに目を閉じながら、絶対そんなのおかしいさ!もう一度、その声が胸に翻った日。
だってかあちゃんは泣いたりしない。おばさんだって泣いたりしない。強いもん。武成王の家族だもん。兄貴もだもん俺っちもだもん。強いんだ、大好きなんだ、柔らかい光に包まれて、穏やかな愛を感じた日――。
数日後に、母の身体に新たな命が宿ったと聞いた。あのとき感じた暖かな鼓動も、きっとずっと、胸に閉じ込めて忘れない。
穏やかな幼い決別の日だ。


「――あっち行けよ」
何処までも遠く高く、崑崙山から見やる空よりも胸を突く、鋭く優しい青空だった。白い外套が茅葺の陰で丸まっている。もう数刻になるだろう。怯まない、逃げない。生まれて久しく震えすら感じなかった脚に、暴発するなと自制を命じた大好きな黒いブーツが歩みを止める。
「……お前まで説教?」
続かない言葉は、続けたらきっと零れてしまうからなのだと舞い散る葉に教わった。この大男は、果たしてこんなにも小さかっただろうか?この人の何を知っていただろうか?
軽口と共に駆け抜けた街は、手を合わす人々の大きな祈りとなっていた。偲ぶ故人は、穏やかなる目で激動の人生に幕を下ろした。印籠と想いを、このいじらしい背に託して。
「なんか、言えば」
カラカラに干からびた喉が、ありもしない唾液を飲み込む不思議な矛盾。言葉に出来たら変わるのだろうか?空を見れば渡り鳥。芳しい風の色。
長旅の終結は穏やかなる大気に抱かれてここにある。
――言葉が出ない。

「ああ、心配ねぇよ?」
遮ったのは発だった。
「太公望のヤツにも言われたぜ。俺だけじゃねぇって。」
「……うん」
「お前の仕事はなくならねぇよ、安心しろ。王ってのになんなきゃなんねーの、俺」
「うん、」
「…情けねぇよな。結局オアツラエなんだぜ」
卑屈な色は、きっと恐れだ。
「わかんねぇよ…」
サラシの胸が締め付けられる。太極の刺青が幾重に重ねたその下で、それが皮膚として生まれ変わるにはどれだけの日がかかるのだろう。息が苦しい。この人が、この家族と、過ごした日々に敵うだろうか――
亡くした恐れが胸を楽にする。どんな類の皮肉だろう。
「――……情けなくなんかねぇさ」
「思ってもないこと言うな」
「姫発さんは弱い」
「ほら」
瘡蓋が剥がれても、いいのだろうか。
「…すげぇ弱いし、武術もダメだし、ドスケベだし、馬鹿だけど、でも……姫発さんは自分が弱いって、ちゃんとわかってるじゃん。」
卑屈な貝をこじ開ける痛みは知っている、理屈の上で。治らないと思った傷が塞がって、瘡蓋が剥がれれば、その下に新しい皮膚があるのだと。幼いあの日、石に打たれて知っていた。
「怖いって、悲しいって…そーゆーことちゃんと言える人は、情けなくなんてねぇさ」
目の前の大きな背が、首を落として震えていた。
「本当に情けねぇのは、……意地張って大事なモン失くすことさ」
ひらひら舞う葉の様が日を浴びた蝶のように、羽化を待つ蝉のように、七日間力強くなき続ける蝉の命は、
「だから後悔しないように……ちゃんと泣かなきゃダメだって親父が言っ…あ、ーっと、ごめ」
後悔。既に口に出た末尾をもごもご引き戻して詫びる途中で、
「お前ってほんっと馬鹿だよな…ッ!」
笑いながら振り向いて涙を見せたその人が、後悔しないように。精一杯の力で、生きる意味を噛み締めるかの如く、空はただ見ていた。願わくはこの世のすべての悲しみを――そんな大層な願いは要らない。
煙草を咥えた上唇が震える前に、この腕の中にいる人の悲しみを癒して欲しい。そんな願いは何処から沸いているのだろう。
震える頭を抱き締めながら、白いサラシがこの人の頬に悪くはないかと意識が飛んだ。修行に明け暮れてろくすっぽ取り替えやしないサラシもデニムも、この正直に捻くれた優しい人の頬を傷めやしないかと、鼓動に重ねて数える日。じんわり伝わる水の温かさは、降り出した雨に紛れて大地に還る。重ねた手は、細いしなやかな指を持っていた。自分とは違う男の手。

不器用な人。
王になるにはきっと荷が重い。
いてやらなきゃ、護ってやんなきゃ、この人は――今度こそ。

「…ありがとよ」
「いっつもこんぐらい素直だったら俺っちも苦労しねぇのにさ」
「うるせぇ!調子乗んなよバッタ腹!」
「王サマも一緒に筋トレすっかい?」
「嫌だねー、マッチョって今流行んねぇの知らねぇ?」

笑顔と共に胸に広がり溢れた情は、"人望"や"人徳"なの類なのだと通過儀礼のサラシの中に閉じ込めて。
無理矢理吐き出した煙に胸を焼き切りながら、笑い合う夕闇の中で肩が触れた。

2011/05/19









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