「武王」
「……ついてくるなよ」
高い背二人の押収が既に名物と化した天幕の隙間から、突き出した首が左右を探して振れていた。
「ついてくんなっつの」
「僕だってついて行きたくありません」
「このヤロー…」
似たような押収はこの数日舌打ちト共に幾度となく交わしていた。もっとも伏せた目を彩る長い睫毛も肩を撫でる長い髪も、ことこのターバンの記憶には存在しなかったが。ふと描く胸に位置する丸い頭に黒い髪、丸い瞳に白いバンダナ。微かな汗の匂いと血の匂いを引き連れて、立ち上る細い煙草の煙と鼻の傷。いついだか尋ねたその年齢は、自信があった想像力が及ばない程自分に近いものだった。それにしたってたったの二十だぞ?ターバンに隠れて思惑は止まりそうもない。積み上げた書簡と目を射る細かい文字に紛れて、毎日毎夜共にいた思い付く限り名を連ねてみた。

――大切な人とは誰だろう?

如何せんことがことだけに不謹慎だと、片隅の撤退指令に胸が軋む。彼にとって自身より汚すに値する陣営はそうそうない。指を折る。あの日蝉玉に気がないと言い切った口は、確かにあの一件以来も彼女と言葉を交わしている。しかも以前より幾分穏やかに。持ち前のその強さからして武成王ではないだろう。同様に仙人である師匠も除く。場を仕切った楊ゼンもだ。軍師か?違う、楊ゼンと同じ理由。
――誰だろう。
そもそもそんな相手がいただろうか。その口振りから相手が子供ではないだろうと弟たちは除かれる。他の近しい相手とすると――
「……俺だったりして」
「はい?」
「いや、いや…っ」
血の気の引くとはこのことだ。血が騒ぐともこのことか?浮かぶいくつかの可能性に耐えかねた額が質素な机にぶつかった。

――不謹慎だ、とても。

気付かぬ程に側にいて、手を伸ばす前に去ってゆく。三月程前にそれを近くで感じた筈だ。数日前の膝の上で、それを心拍と共に重ねた筈だ。あの夕日にあの笑顔。

王サマ

「……いや」

墨の香りに飲み込んだ青臭い言葉は、喉仏を切りつけた発のもの。今もあの背はひとりだろうか。父の旅立ったあのときに胸を貸してくれたあの腕は。すくんで動かない二本の脚に、逃げるようにと号令をかけたあの唇は、今も煙草をふかしているのだろうか。漸く縫合された脚と腕で本当に守ろうとしたのは誰だろう。数日前の夕闇の中で、優しく己を読んだあの声は、
「――……」
今もひとりでいるのだとしたら。
「武王!?」
迫る夕闇に駆け出した。今も誰かといるのだとしたら。
「武王!」
――いやだ、
不謹慎極まりない不安定な気持ちの矛先は、何時だって隣に向いていた。自惚れるより確かで確認するには不確かな、夢見た幼い日の暁の如き双方向として。暮れれば昇り沈んでは浮かぶその空のように、何時だってそこに存在したその証。
「武王!」
駆ける砂嵐によろける脚に、
「武王じゃねぇ!」
そうだ。
あの、紫煙に混じる特別安っぽい称号が欲しいのだ。腕を掴む楊ゼンの呆れ顔に影が指す。
「あなたが行ってどうするんです」
「知るかよ!離せっつってんだろ!!」
「気付いているでしょう!天化くんの動揺だって!」
「……え?」
風を孕んだ麻の幕が、一層膨らんだ。随分と大袈裟に波打つものだ。見開かれた発の目に写るたおやかな髪のその主は、これだから、とだけ首を振った。
「どーゆーことだよ?」
「……わからないのなら尚更だ。不用意に引っ掻き回すことが優しさであるとは思えない」
「……意味がわからねぇ」
「だからですよ」
一瞥した目に嘘がないだろうことは、
「……」
怯むくらいに伝わるのだからかなわない。それでも今一度、
「会わなきゃならねぇ……って」
「まだわからないのかい!?武王がそうしている限り天化くんは立ち上がれない!立ち上がる術も余力もあなたがみすみす奪うからだ!」
「だから意味がわからねぇっつっ――!!」
稲妻の如き強さの岩石に、続く叫びは阻まれた。
「―――いっだー…!!痛ッ…」
「蝉玉くん!?」
王の顔面の流血だろうとお構い無しな。その手の扱いに長けているのは、遊び人こっぴどく手を振りほどく街の娘たちと、この三つ編みの彼女と、
「バッッカじゃないのアンタたち!」
恐らくはあのバンダナも――遠退く意識が聞いていた。
「何時までも引きずってんのは楊ゼンと武王だけでしょー!?アイツはとっくに吹っ切ってるわよ!」
もうひとつ岩を片手にヒールが鳴った。状況を飲み込めないのは残された男二人、少なくとも額を盛大に擦りむいた時の王、近付くヒール。幼い目が吊り上る、
「いきなりワケわかんないしムカつくヤツだと思ってたけどっ…」
「蝉ちゃ」
「アイツは平気な顔して兵の訓練出てるわよ!水汲んで火ぃおこして炊き出しやってるの!弟たちと笑って杏仁豆腐振る舞ってるわ!!」
即ち女であることを主張して。
言葉を失うのは、何時だって男と相場は知れている。おぼつかない足取りの饒舌な王も、言葉も知識も不足はない彼の天才でさえ、
「天化の方がよっぽど男前よ!」
最後の言葉に今度こそ声を失った。
「まぁ一番の男前はハニーだけど〜っ!」
笑いながら走り去る乙女の宣誓のこだまが耳に残るまま、
「……オイラもよ、今のおめーらとは美味い酒飲めそうにねぇや」
ニヤリと一瞥した男は首を引き摺られて砂に消えた。

残された男二人。
「……まさか蝉玉くんに小言を貰う日がくるなんて」
「土行孫のヤツ…やっぱ惚れちまってんじゃねぇかよ」
「……僕と君は合わないね」
「そりゃ水と油だろうよ」
「ああ、武王は油ですか」
呟いた声と笠懸の衣擦れを聞いた風の音。異論を唱えればきりがない。確かなことはただひとつ、単体であれば動くことない桶の中の油の粒は、その張り詰めた水面において己と自由を得る――駆け出したその脚だ。
「……天化!」
注ぐ火が水に消えても一滴の油は燃えるのだ、たった一つその火を求めて。赤いブーツが小石を蹴った。









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