矛盾




文字通り鬱蒼と伝う蔦の中に、ふわふわと匂い立つそれがある。成程見知った泉よりも幾分蠱惑的な乳白色の滑らかな湯気に、丸い目を細くした。
「別に変わったこともなさそうさ…」
楊ゼンの刺した釘と課した使命が、一本気の跳ねっ返りに新たに授けた僅かな慎重は、ゆっくり解かれる胸のサラシに現れた。落とした煙草に額のバンダナ。ブーツとデニムを手元の茂みに引っかけながら、
「……これって」
臍から下の選択指に微かな目眩を感じただろうか。

男の身体。
十の月日で当たり前になったその張形に、今更なにを迷うのだろう。吐き出した吐息が吸い込まれる乳白色の水面の中で、含ませた右足の熱が痛い。ふわりと昇る安堵にも似た快感に、投げ入れる左足。ついにはとぷりと沈んで頭が消えた。

熱い。見慣れぬ不思議な白い水は、身体の芯を強く抱き込んで焼きつける。飛び込めば白濁した小さな塵で目が熱い。快と不快に占拠された身体で、新しい傷が脈打っていた。

「王サマ」

言葉は泡沫迷いはきっと絵空事。水に消える。崑崙を旅立つそのときに増やした薬丹に、不本意な出血は止まっていた。

「っ…はー…」

100を数えて浮かぶ顔が酸素を求めて鳴いていた。これが涙の筈はない。あの白い外套は十中八九こんなに潜れやしないだろうが、道士には容易いものだ。直結する残像に飛沫をあげる黒い髪、赤い頬。真一文字の古傷が、ふやけて赤く色を変えた。

変革を重ねる胸の内は、掴んだ外套に矛盾する。夕べは少しの睡眠も赦されなかった。
伸ばした脚に熱い湯が纏わりつく蔦の如く、日々の行為の真意を知る。
「なんてことしてるさ俺っち…!」
じんと痺れた身体の奥、濡れた髪を強く左右に振り払う。蠱惑の乳白、張り裂ける胸と羞恥の狭間で、顔を覆う手が震えていた。
眠れる筈がない。
毎夜毎夜引き寄せたあの白い外套は、少年の身体をすっかり変えたのだから。抱き締めて引き寄せて脚を絡めて、密やかに禁忌のその名を呼んで――慰めるように泣かないように――酷く優しく身体を撫でた。それが彼だと夢を見ながら。
その時間に眠れる道理がないのだ。そうしなければ眠りに入ることが出来なくなった身体をすっかり持て余しながら、隣にはその本来の姿を感じる。外套は寝台の近くで乱雑に波打っていた。
「――……っ!!」
辿り着いた結論に吐き気がする。あの淫行の際限のないこと。口を覆った手のひらが、天化の寂しい口を捉えては湯気が舞う。羞恥と劣情に苛まれる吐き気が腫れぼったい身を侵食する様は、想像以上に酷刑だ。 途切れ途切れの優柔な意識でもって、湯気の渦に人影を知る。――ああ、
「……王サマさ…」
――来てくれた。自分を追って?草を踏み分けるブーツの音。優しい影に子供のような我儘を乗せて、切なさを纏うその外套が。
「姫、は、つさ…ん?」
柔らかい手に包まれて、少女の意識が悲鳴の中にかき消えた。
「追いかけなきゃって思ったんだ」
「……っ、き」
絡めて重ねられた唇の甘いこと。矛盾だらけの腰を引き寄せては囁くその声が告げる。
「は」
「愛してる、天化」
と。
驚愕の瞳が象を捉えるその前に、天化の脚が囚われた。こんなことがあり得るだろうか。無意識に望んだあの熱い手、逃げられやしない甘い甘い蠱惑の香りが、左の脚を離さない。這い上がる寒気に似たあの背徳の渦巻きが、身体中にわだかまって、
「やめちまえよ」
「…なに」
「戦争なんてやめて俺の妃になれよ、天化」
微かに引かれた後ろ髪は、引き千切って駆け出した。
「天化!」
「アンタ」
振り返りざま上がる怒気に飛び跳ねるその外套が敗られる、
「王サマじゃねぇ!」
その一瞬の境地。飛び上がる黄金の光の柱が、波紋に黒い油を滴らせて姿を消した。
「……ガマか」
大きく剥き出した両の目と潰れた低い断末魔を冥土の土産に、今度こそ幼い膝が折れる水しぶき。左の脚に浴びた黒い返り血は未だ冷たくまとわりついていた。吐き出した息は微弱な色を纏いながら、煙草を求めて這い上がる。
「……王サマはあんなまともなこと言える男じゃねぇさ」

妃が欲しいなんて思っちゃいない遊び人で、おあつらえをなにより嫌う純朴な人で、
「男なんか抱く訳がねぇ」
誰より女を愛する子供。
「へっ…化けるんならもっと上手くやるさ、卑怯者!」
なんとも皮肉な道理に膝が震えるのを抱き寄せて叩きつけて、胸にサラシを巻き付けた。役目を終えた鑚心釘が枯れた茂みに転がる音。それにすらぞくりと肌が騒ぐの矛盾には、知らない振りを決め込んだ。あの隣へ戻る為。もう二度と一人にはさせないと、交わした日々を護る為。己の誇りを護る為。
涙は見せないのがあの日の跳ねっ返りの理だ。暴かれる矛盾の色。それをなにより忌むべきなのだ。

「弱さがあるなら、それは天化の中にある」

いつでも師父はそう告げた。余りに笑顔で言うものだから跳ねっ返りは鼻先で笑う、俺っちは強いから。何時だか真面目に厳しく告げたその声に、俺っちはそんなに弱くねぇ!張り上げた意地と悔しさを、身を以て刻み込まれた快感に知る。振りすぎた頭に吐き気がした。
「……天化くん!?」
近付くたおやかな空気の気配に気付く余裕もない程に。
「楊、ゼンさ…」
言葉を紡げない程に。
「魂魄が、見えたから」
様子を。胸のサラシは綺麗に整えられていて、疑う余地は残りもしないのに。
「王サマは…!」
「今は師叔に言われた書類を読み込んでるよ。大丈夫、宿営地で武成王も傍にいるから」
「そ、…か…」
「天化くん!?」
とりすがる腕の中で色を亡くした唇が、煙草と酸素を手放した。


天幕の一堂に会した周の仙道が、みな天化の言葉を待っていた。
「それってここら全部危ないってこと!?」
「……だから全部じゃねぇさ、あのときたまたま…」
辛うじて開く唇は、先を促す青い瞳に視線を投げて迷い続ける。
「天化くん」
「もうなんでもねぇさ!アイツは封神したんだ!」
「それじゃ君に偵察を頼んだ意味がないんだ」
言える筈がないのに。
「君がその様子だと兵にも不安が移るかも知れない。」
渦巻く道理に首を捻り上げられながら、
「…まぁよ!また全治三ヶ月ってんじゃねぇんだし!いいだろ!?」
「武王がそれでは示しがつかない」
「楊ゼン!」
「貴方はそれを5万の兵の前で言いますか!?」
「んなこたぁ言ってねぇよ!!」
未だかつてない只ならぬ天幕の冷たい空気に、青ざめた薄紅が目を向ける。
「やはり今回のことはわしの安易さにも非があった」
それ以降を語らぬ口は、暗に先を促す一人だ。無益な言葉を暴き出すことをよしとしない軍師の姿勢は、誰だろうと知っているから。話すことが有益であると。
「天化」
それよりなにより胸を締める、困惑した彼の人の目を、認める矛盾が怖くてならない。
「天化く」
「――なにも知りもしねぇ妖怪の癖に!!」
肩に掛かる指を新たな水滴の平手が払う乾いた音の響くこと。一瞬の短い蝉玉の悲鳴に、事態を飲み込みきれない白い外套が仰け反った。反動で解かれた楊ゼンの目を隠す長い髪に、静まりかえる天幕の白が風を浴びてはためいた。ふと、綻ぶ口元。
「……大事なひと、を、」
答えない道は残されていない。荒く上下する肩が、焼き付いた劣情を掘り返していた。
「……汚されそうになっただけさ」
震えやしないだろうか、と、ブーツの踵が砂利を踏む。
「けど俺っちがそんなモンに騙される訳ないっしょ。すぐ叩っ切って返り討ちさ!」
「そっ…そりゃそうよね!男だしあんた!」
「当たり前さ。ガマ蛙さえ気ぃつけりゃー問題ない」
跳ね上がる三つ編みの影が揺らぐ天幕の下。
「……なぁ!んじゃあお開きってことでいいだろ!?休めよ天化!な!」
その気遣いが注ぐ苦渋に、煙草の奥歯を噛み締めていた。

方々に散る仙道の中に、父親と弟の姿がないことに早く気付くべきだったろうか。武成王が加わらぬ軍議など前代未聞。内容を、知っているから外したと。

護衛は降ろされざるを得なかった。そよぐ不気味ななま暖かい風の下で、はためく外套と隣へ立つ長い髪、肩掛け。心配そうに眉を下げて振り向く姿に背を見せた。降参――即ち諦めの証の背。

きっとあれは悪い夢だと、思えるならばそれでいい。痛い痛い胸の中で、確かに感じた一度目の吐き気は、封じていた己への嫌悪に他ならなかったのだから。

「……くそ!」

呟きかけた主の名は、奥歯で擦って粉にした。









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