矛盾
陽はまた昇る朝焼けの荒野で、大河の南、遥か彼方地平を潤す緑を認めた。
「森か…厄介だな」
左目を細く閉じながら、長い髪が空を泳ぐ。陣を引いた地点から数キロもないこの近場に、最早忌むべき金鰲の温床があったとは。浮かれはやる兵士を野営に治め、右には幼い軍師の姿。
「すみません、もっと早くに気付くべきでした」
「一概に悪いとも言えんかも知れぬの」
にい、と微かに上がった口角は、彼の自信を如実に表す時他ならない。
「地下水音からするに、冀州の地の温泉を引いておるやも――」
もう一度上がった口角と左手の指先に、
「お見逸れしました」
長髪が自嘲の首を竦めていた。
確かに、この色もこの音も冀州の物であります。お役に立てる日が来ようとは…娘の非礼と傍若無人を嘆く武人は、柔らかな笑みで人を迎え入れた。
「そりゃあ良かった!」
大きく口を開ける武成王の脇に立つ、若き道士を。
立派になられて…それ以降を語ろうとしない口を、
「……にしてもよ、」
少し外した視線と笑みで塞いだのは、やはり白いバンダナと顔に走る一本傷だ。
「やっぱりおやっさんと共闘出来る日がくるなんて願ったりさ!小っちぇ頃のことは忘れちまったことも多いけど」
力強くぶつかる目は、幼い日から変わらないまま陽の恩恵を映し出す。
「世話んなるな!」
差し出された右手を取らぬ道理がある訳もない。豆に包まれた手のひらは、年を重ねた彼よりも柔らかく温かい。皺に隠れた目元が深く熱くなる。
「ああ…」
その少年は隣の巨大な手にくしゃりと髪を撫でられて、微かに頬を膨らせていた。呼ぶ主の声に走る革の背がしなって消えた風の中。
「――ますます亡き奥方に似ていらっしゃる」
「こればっかりは……どうしてやったら良いかわからねぇんだ」
まず再会の酒でも。不器用に笑い合うその腕に抱いた幼子は、もう遥か高みにいるのだから。
「お互い娘には苦労するな…」
「全くです」
傾国の仙女に美しくも素朴な黒髪を乗せた彼の娘も、全ての矛盾を抱いて突っぱねるその娘も。今はもう世に本来の名はない。
「温泉…!?」
「ええ、冀州候蘇護殿が間違いないと言っていますし」
「ってことは…だっだだだ妲己ちゃんも入ったかも知れねぇ温泉ってこっギャァァァア!!!」
「妲己に目ぇ眩ませてんじゃねぇさ!!」
好色なこの時の王、
「懲りないね武王も…」
鑚心釘で刺されずに済んだのだからと笑う様子に、また溜め息の肩が上がる。ひとしきり騒ぐ王と護衛の怒号に身を翻したたった今。
「俺っちもひとっ風呂浴びて来るさ」
「なら俺もっ!!豊邑じゃあ温泉なんてお目にかかれねぇしよ!!」
青空を抜ける風が一瞬後に張り詰めた。
「……っな…駄目に決まってるさ!ンなっ」
「あ?なに…ああ、つるつるあんよだろ?今更毛ぐらい気にしねぇっての!あれだけイイモンついてんじゃねぇかお前」
「王サマっ!!」
「お言葉ですが武王」
何処まで矛盾の橋を渡れるか、試したのことがこの目の本音と気付く者はいやしない。バンダナの下で紅潮した頬が、明らかに安堵の類の息をして、細く細く煙が揺れた。
「…なんだよー俺だって温泉ぐらい」
「あの鬱蒼とした茂みの中で狙うとしたら至近距離。それも確実に武王の首か胸を突くでしょう」
「うげっ…」
「天化くんがいかに早い獏邪の使い手でも、間合いを詰めるのは至難の業だ」
「う」
「使い慣れない鑚心釘で果たして裸の武王を守れるかどうか――ああ、常に抱き合ってでもいれば別だけど」
「……お前ってホンっト嫌なヤツだよな…」
「レディーファーストにしても蝉玉くんに偵察を頼むには忍びないし。それを兼ねてくれるなら、確かに君以上の適任はいないね、天化くん?」
「ああ!異論はねぇさ」
斯くして笑顔のサラシが自信に満ちて走り去る。幼い胸に渦巻いた、暗雲をひとつ残して。
「全く世話の焼ける…」
「楊ゼーン、俺も温泉…」
「なら後で僕がお供しますよ。哮天犬を見張りに着ければ問題もないし。異論あります?」
「野郎は嫌だ!」
至極当然と振り上げた拳の力強いさときたら、何故これを殷討伐に注がないのか、三度肩を竦める羽目になる。
「……天化くんとなら構わないんですね。まったく妙な話だ」
瞬間見開く両の目と、すっかり萎縮して居場所をなくした長い指先が迷い続けるその様を、
「一雨くるかな」
押し付けた書簡の狭間で押し殺す。本当に、世話が焼ける――指先の微かに震えることを認める者は未だいなかった。