悼み




また陽は昇る。胸に響く名の知らぬ感情に乱反射して、呆れる程に真っ直ぐと。
「ヤベぇだろ…いくらなんでも」
一体どんな事態が起きたのか。解る筈のない過去の情景を探しに走る意識の隅で。あのむせ返るような夕焼けの中、最後に己を呼ばれた瞬間こそ確かに覚醒を自覚していた。
"王サマ"
耳に残る風の音が、凛とした残像を幾重も導く星の夜。寝たくもない真昼間に寝入ってしまった護衛の膝の上は、予想を裏切り続けて温かかった。最たる問題は、覚醒を隠した己自身。最後のひと声を掛けられる瞬間に狸寝入りを決め込んだ己自身だ――。
そもそものあの天化の態度はなんなのか。それに安堵した自分は一体なんなのだ。開かない扉を押してしまう寸前でかかったあの楊ゼンの呆れ声がなかったら、頬に触れるその指を許していたのだろうか?眠れぬ意識は不安定に宙を掻く。
「って、許すってなんだよって話だよな…」
「どうした?」
「いんやー、ちょっとな」
しまりのない宿営地は、夜になればちょっとした色がざわめき出す未だのどかな地。ささやかな食料庫の幕の下。目ぼしい女がいる筈もない無味乾燥の地で、土行孫が伸びをした。
「あーあ!お前はいいよなぁ蝉ちゃんいて」
「バカヤロ!知ってんだろよかねぇや…」
「いいじゃねぇかよ」
からかう手は半分以上本音の手だ。別に生涯を共にするなんて決める必要は何処にもない。王妃など欲しい訳もない、今必要なのは酔える酒と安心できる女の胸だ。美味い酒の必要はなし。込み上げるあの異様な風景は陽と共に大地に沈める、そんな程度の。
「まだ起きてるんかい、お子サマ」
気配なく天幕を潜り抜けた声に肩が跳ねてうな垂れた。
「お前なぁー」
論点を大いに逸したその声に、胸が鳴る前に腹が鳴る。そんな程度の苛立ちと焦燥。
「昼寝し過ぎさ」
「うるっせぇなもう!お前が起こさなかったんじゃねぇか!」
驚愕の早さで色めき立つ日。抱きかかえた酒樽は、軽々ソイツに抱かれてしまう。その程度の力でしか抱くつもりもない曲線が欲しい。土公孫の笑い声と杯が見逃される辺り、いよいよ論点がわからない。
「ほら、明日起きなくっちゃ話にならねぇさ」
「起きるっつの」
丸い垂れ目に重ねて脱線しかけた発の道が、また夕闇に引き戻された。
「……なぁ、お前も蝉ちゃん狙ってんだよな?」
「――っとにあんたは」
この手の話を面と向かってしたことはなかった。
「馬鹿言ってないでさっさと寝るさ!!」
普段の言葉に付け足して明らかに不満の色を濃くした声が、まったく少年のそれだった。
「ほら、やっぱそうじゃねぇの」
「誰がさ!」
「それならオイラも解放されるってモンだぜ」
「俺っちは恋愛ごっこしに来てんじゃねぇ!」
余りに大袈裟に投げ捨てた煙草に踏みつける靴。ほら、そこがまだまだ幼子なのだ。発の目が細くなる。見えてきた論点に沸点。――間違いない、一連の護衛のこれはただの人恋しさだ――人肌が欲しい子供の行動。
「照れんなってば」
からかえばからかっただけ赤くなる頬に尖る唇。確信したのはまだ少年にすら程遠いその人物の足跡だった。少し前に母を亡くした。悲しい顔ひとつ見せないのは奇妙な奴だと感じていたそれが、おぼろげながら像を結ぶ夜。弟の前では大概良き兄の鏡であるその身体も、今日知ったばかりの幼さの塊としてそこにある。つまりは、
「お似合いなんじゃねぇか?年上のおねーさん」
そう言うことなのだ。甘えたい盛り。
「馬鹿にすんじゃねぇ」
「してないしてない、行ってこいって」
「行ってこい行ってこい、オイラは璧雲ちゃん探しに行くぜ」
「モグラ!」
一際大きいバンダナの逆なびき。終には掴みかからん剣幕のその声に、
「ハニー!?此処にいっ…」
「あ゙」
当然ながら開け放たれた白い布、渦中の彼女の細い脚に黒く華奢なピンヒールが地に着いた。
「天化っ、ばかやろー!!声がでけーっての!!」
「やだもうハニーってば照れちゃって!いいのよ恥ずかしがらなくて!」
ひったくられる低い首元に引きずる彼女の手首のワイヤーが、仰々しく幼い恋を引き連れて走り出す刹那だった。
「こっち来るさアンタ!」
「えっ…」
ワイヤーより強く早く、腕を引っ掴んだ護衛の手。発の口笛が一際高く響いていた。

歩き続ける腕が止まらない。苛立ちが闊歩する砂の風。
「ちょっと、なによ急に!!ドコまで行く気ー!?」
「人のいないトコさ」
「えっ…なっ、あんたレディーに向かってそれって」
「いいから!」
ぴゅう、なんてまた背後から追随する口笛を、煙草の煙が振り向いてなぎ払った。理不尽に掴まれた手首をひとしきり大げさに擦った三つ編が、軍の外れの荒野で止まる。
「嫌よ。これ以上ハニーから離れるの」
「んなこと言ってんじゃねぇさ」
「離してってば!」
強張る声が告げる月夜、
「――アンタ、何処まで知ってる?」
「っえー、な、なーんのことかしらー?」
一寸低いジャケットが、かわす藍の目を捕らえた瞬間。その物言いは全て知っている――ざわめき出すサラシの胸の下。冷や汗をかいたら負けも同然だ。月が見下ろす影絵の中で、沈黙と牽制が行き来する。
「……ねぇ、あたし帰っていい?ハニーが待ってるの」
「聞太師の勅令ってことは」
交戦が交戦にならない。論点がことごとく外れた月の夜。
「さっきから失礼ね、喋んないわよ!もうスパイじゃないんだし」
「んじゃあさっさと帰りゃあいいさ。あんたの親父さんが周についたのだって、あんたが取り入ったからってのは聞いてるし」
「あんたにパパは関係ないでしょ!あたしとハニーの」
「だったら尚更深入りする前に帰るさ!」
「なんでアンタに指図されなきゃなんないの、ムっっっカつくー!」
「ムカつくムカつかねぇで済む話じゃねぇ!」
「声が大きいよ二人共」
掴みかからんばかりの子供の声に終止符を打ったのは、またも風になびく長髪の彼だった。
「楊ゼンさ…」
「天化くんとは僕が話すから、蝉玉くんは自分の天幕に帰って」
瞬発力では誰にも負けない一文字の傷が、驚愕のち怒りの矛先を変えて跳ね上がる。
「なんで俺っちが!」
「なんでって君の左手」
「……へ?」
酒樽だ。食料庫であの手から奪った酒樽の縄もそのまま、ご丁寧に此処まで引き連れてしまっていたそれに腹が立つ、その後。舌を出して走り去る蝉玉の華奢な首を見た。影が伸びる長い髪、三つ編の、スカートの、女の。――あのままあの宿営地に帰るのだろうか。一抹の不安が酒樽の残像を追いやれば、すぐさま咳払いが降る。
「天化くん、君」
「違うさ、これは王サマの」
「それは知ってるよ。」
戻るのだろうか、あの場所に。あの女好きがいる場所に――
「そうでも言わなきゃ蝉玉くんがおとなしく引き下がる訳がない」
「ああ…そーゆーことかい。流石楊ゼンさん、話がはえーさ」
すっかり色の戻った唇は治まった激情と冷や汗の数粒を押し流した。咥え煙草にサラシの胸。吐き出した煙に不安が消える。
「それにしても君も君だよ。明らかに男性の力が強いんだから、誤解されても仕方ない」
「そりゃあそうだけど、俺っち王サマじゃないしそんな気ひとつも」
「それは"君が"の主観でしょ。客観的には違うことだよ。軍を風紀を乱す訳にはいかないんだ」
「……そーゆーモンかね」
「そうだよ」
"男性"。矛盾を引き連れたその認知が、胸に宿る不安を消した。流れる雲に隠れる月光。尖らせた口に長い髪が月に栄える。
「んじゃ、ありがと。気を付けるさ」
相変わらずの煙草とブーツ、バンダナとサラシ。再び抱き締めてしまった酒樽を落とさぬ様に壊さぬ様に、素直な脚で駆ける背中は、

「――……だから何時までも少女なんだよ君は」

生まれたばかりの客観を知りもしなかった。









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