蜃気楼




なにさ!
少年の鼻が鳴る。平和なのは良いことだ――違う、平和であるなら切望してまで下山した己はどうなるんだ。あの意気込みを返して欲しい。自分のいない間に増えた見知らぬ人影に、天化のブーツが吸殻を踏みつけていた。追記するならば美化された記憶より幾分薄汚れた外套もだ。
「ったーぁくよー!随分な挨拶だよな」
「へっ!相変わらずタラシかい」
「お前こそ相変わらずじゃねーの」
不機嫌な靴と歪めた眉の下敷きの大柄な背が吐き捨てる言葉に、――気付きやしない。いつかのように逃げ出さないことなんて。
「……誰さ、あの女」
「スパイの蝉ちゃん」
「スパっ…!?」
「ああ、元スパイ。なに?惚れたって?」
「んなこと言ってねぇ!」
「止めとけ止めとけ、顔だけプリンちゃんだけど中身に難アリでよ」
「あんた追い掛けてた癖にどの口が言うさ」
「だーぁらお前には扱えないっつってんだよ!残念、恋愛上級者じゃなきゃムリなお話!」
膨れ上がって仕方がない。ざわつく胸の内には正直に、
「やっぱりとんでもないバカさあんた!もうやってらんねぇ!!」
下敷きの外套と悲鳴を蹴り飛ばして黒革の背が消えた。唸る風はそこになく、そよ風がさわさわ埃と舞うばかり。
「……だってよ…」
土埃に草いきれ。陽の光に舞う鮮やかな埃にそれを透かせて、膨れっ面の目が伏せる。汚れた外套にへこたれないのはいつものことだ。今に始まったことじゃない、いつの間にか当然としてそこにあった、桜の日すら今は遠い昔の記憶。
「……他になに言やぁいいんだよ」
大柄な見掛けより華奢な左手が、乱れた前髪を絡めて止まる、少し後。
「聞いてねぇっつの…」
――こんなにかかる怪我だったなんて。吐き出した躊躇いの吐息が、
「…っあ゙ークソっ!!」
ずり落ちた左手の上下で掻き乱される。あのときと同じだ――描く回想は、この三ヶ月一日たりとも忘れやしない、あの護衛が切り刻まれた日の焦燥。理不尽に消え逝く友の住む街に、なにも出来ない自分が一人。ずっと、ずっとひとりぼっち。なにも出来ない。

仙道だからと高をくくっていたのだろうか。護衛なら当たり前とでも位置付けていたのだろうか。
桃でも食べれば魔法の如く、一瞬で消え失せるだろうと踏んだあの傷が……
「……なら鼻の傷もとっくに消えてる…ってことか」
悔しくてならない。手も足も出ない自分の代わりに、文字通り手と脚を失いかけたその少年が。
「っかやろー…クソ!」
掻き乱す、胸の内。
三日三晩で戻るのならば礼のひとつだって言ってやれた。軽口の三つや四つも当たり前だ。ともすれば涙を流して抱擁なんてしたかも知れない。
それが十月十日なら、久しい顔に再会の宴を開けもするだろう。……なんだって三ヶ月なんだ、なんだって物資も少ない宿営地なんだ。風に揺れる外套。遥か彼方には蜃気楼。
「腕、…隠してたよな」
考え過ぎだと笑い飛ばせばいいのに。見慣れぬ茜色に包まれた肘が脳裏に焼き付いて離れなかった。左右に揺さぶった頭の中で、振り返った笑顔が言う。大丈夫さ、王サマ勘ぐり過ぎ。
――見たことのない儚い顔で。
「……あいつ」
実際見てやいないのに、浮かび上がるこの薄靄は記憶の一体なんなのだろうか。
俺っちそんなにヤワじゃねぇ!
美化なのだろうか勘繰りだろうか誇張だろうか。
「……っ仕方ねぇな!!」
大の字に転がりかけた発の身体が、深呼吸と共に跳ね起きた。


「ったくまたかい!!」
「ぅあ゙ぃっ…」
陽も高い、要塞は完成へ。走り出した草原に数歩のタイミングで襟を引っ掴まれるのは、最早予定調和だ。
「いってぇな!ちょっとぐらい手加減したらどうなんだよ!!」
「加減して懲りねぇからさ」
「…首、くび!」
「え?ああ、ごめん王サマ」
流石に首が絞まる予定はなかったのに。あまりに軽々外された拘束に、今度こそ草っぱらに身体が落下した。
「で?」
「昼寝ぐらいさせてくれたっていいじゃねぇかよ」
「へっ……」
開いた口に、見開く目。
「なんだよ」
起き上がって縮めた一歩にも瞬きすら忘れたその目は、
「それならいいさ。最初っから言ってくれりゃ面倒ねーのに」
予定調和外だ。
「はぁ?」
口と目を開き返したその一瞬で、黒革とデニムが草原に胡坐をかいて座り込んでいた。とかく思考の追随を許してくれないのは、仙道とのこのいざこざに巻き込まれてからじゃ常にすらなってしまった。それでもひとつだけわかる、かわらない"予定調和"。
「ん、ほら。寝ないんかい王サマ」
「ヤローの胡坐で寝ろってか」
「ああ、んじゃ…はい」
「ほんとバカだよなお前」
さっさと正座に直った脚に、何を言えば良いのだろう?
「ほら、寝るならさっさと寝る!」
「誰がお前の膝で寝るっつったよ?」
そう言いながら
「寝てるじゃん」
「お前が欠伸してるってどうなの」
おとなしくその罠にかかる辺りは、互いに変わらない調和。流石に仰向けになんて寝てやらない。左耳を下にして遠い蜃気楼が近付いてくる風の音が、ぼんやりこもって待ち受ける。
丁々発止の軽口と笑い声、噛み合わない本音。喉につかえる名の知らぬ悔しさと、
「……ありがとな」
「なんでもねぇさ、こんぐらい」
逃げ出せば、追いかけてくるその脚の素早い温かさ。引っ掴む腕の乱暴さに、思いがけない素っ頓狂なまでの短絡的な優しさと、口実にこじつけて漸く見せる、素直な声。煙草の匂い風の音、
「妙だよな、お前って」
「そうかい?なんでさ?」
「いや…なんでって無自覚?」
「王サマこそ訳わかんねぇ」
「うるさいなぁーっ」
「ほら、寝るなら寝る!倒れられでもしたら周大迷惑さ」
「はいはい」
本当に本当にたまにだけ顔を出す、懐かしい居心地の良さ。

――不思議だった。

こんなに、柔らかいのか?予想した筋肉に武装した脚の感触が、発の頬を裏切る。
「…ってお前傷!悪い!!」
「大丈夫さ、王サマ勘繰り過ぎ」
繰り返した言葉は、まるで予知無の様ですらある。
「…いいのかよ、痛まねぇの?」
「俺っちそんなにヤワじゃねぇ」
「っそ…」
「だから安心して寝るさ、王サマは」

――不思議だった。

不可思議だ。眠るつもりなど毛頭ない、ただの甘えの口実にこじつけただけのそれが、凛とした声で眠りの世界へ送り出される。

「……天化、ありがとな」

霞み往く意識の角で、耳慣れない子守唄を聞いた。その主の唇が、今ばかりは煙草と離れている。その口が紡ぐ子守唄、手鞠歌。――朝歌と豊邑はこんなにも音が違うのに、伝わる鼓動が重なるのか――
眠くない。大の大人がひとり、少年の膝で微かな寝息に包まれていた。


遥か彼方、昔むかし。まだ背も伸びぬ幼子がいた。
尊大な父に優秀な兄。木々の緑に恵まれたあの城に思い出の回廊。多くの弟、ちっとも会えやしない、――
「なんでだよ、」
問う程子供ではなかった、そのことを秘かに誇る辺りが子供の意地だ。疑問に疑問符を付けてはならない。言った所で子供には見当違いなキレイゴトを諭されるだけだ。
囲む乳母に、城の召し使い街の民。差別はいけない。差別と差異は違うのである、みな同様に尊き命。勉学に長けないその子供にも道理はわかる。受け入れること反発すること――選択肢は両極に二つのみ。

沢山の母がいた。沢山の弟がいた。本当の母には会えやしない。顔だっておぼろ気で、覚えている子守唄は乳母の口ずさむそれだった。正室も側室も父と邑には必要なんだ。しかし誰にだろうと母親は必要なのだ。父が一番好きなのは、自分の母じゃなきゃ嫌だ。みんな違うから比べられないなんて嘘、大人は上手い具合に嘘をつく。

何にも長けない不器用な子は、二つの選択を同時に引き受けることとなる。己が腕に余る大きな選択を。

父も母も街も人も受け入れるから、己が世界を飛び出した。
昔むかしの幼い日。


――だからだろうか。この声を懐かしく思うのは。
「王サマ」
舞い降りる子守唄が言の葉に止む。頬を包む豆だらけの固い指は、発の記憶の遠い母より幾分小さかった。
「……あちゃ」
左手でジーンズから引っ張り出した箱を弾いてジッポーを灯して、溜め息をひとつ。
「ったく王サマの所為で禁煙じゃ堪んねぇさ、馬鹿」
独り言をひとつ。口に咥えた煙草の灰を草原に撒き捨てて、
「――……わかんねぇ」
少年の頬が夕陽に染まった。
「王サマの方がよっぽど妙さ」
彼方の蜃気楼が夕陽に消える。少年の頬が少女に戻る面差しが、
「……王サマ」
眉を寄せて、白い額と重なった。外套に遊ぶ風の音。寝息を立てる主の唇、高い鼻筋。ターバンとバンダナに阻まれて肌こそ触れない微かな逢瀬に、サラシの胸が締め付けられる。苦しい、苦い、甘い。何故?
王サマ、
呟いてみた唇の先の震えるのは、今ばかりは煙草を許されないからだ。久しぶりの下界の空気が珍しいからだ。胸が苦しいのもきっとそう。
王サマ、
目の前に存在する、安心。頭だけ抱き締めたら苦しそうにうなされた高い鼻。すまねぇさ、なんて笑ったら、また穏やかに眠る明るい目。――この人は、こんなに幼い顔立ちだったのだろうか。天化の胸が軋んで痛む。
王サマ、
触れれば得る安心に、膨張する言い知れぬ不安と胸の痛み。また加速する安堵の吐息に、再び三度、胸が苦しい。

「……王サマ」

囁いて撫でた頬は、自分の逆光で薄暗いばかりだ。微かに動いた眉の影を追う夕暮れ時。他に出てくる言葉を知らない。"王サマ"以外に言いようがない。彼は彼で、もう名を呼ぶことは許されない人なのだから。
――苦しい。
「天化くん!武王!」
今一度その頭を抱きかかえようと伸びた腕が、溜息の楊ゼンに飛び上がって裏返る。
「まったく、君がいてもこれじゃ先が思いやられるよ」
「へへ、すまねぇさ楊ゼンさん」
すっかり少年に戻った無邪気な笑みは、気付く筈がなかった。膝の上でそっぽを向いたその頬がほんのり薄紅に染まったなんて。









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