蜃気楼




出立を明日に控えたその日だった。件の周が発足する瞬間には結局立ち入れないまま無残に過ぎた三ヶ月も、漸く許された修行も、この先の実践も――。
「血が止まらねぇさ」
眉を上げて目を丸くする前下がりの黒髪と、
「なにか食べたりしたんじゃない、もっと不思議な杏とか」
角帽を遊ばせた短髪が嬉々として声を艶めかせていた。
「んなコトじゃねぇんだけどさ、なんか調子狂ってばっかで面倒くさくってならねぇから」
すっかり咥え煙草とサラシは定位置に収まって、少年の背が飄々とバンダナを風に遊ばせる。
「診ないことにはわからないけど、恐らく心因性のホルモンバランスの崩れだろうね」
「俺っちの心ん中がまずいって?」
「そうは言ってないよ。」
目を輝かせたままの雲中子の声色も飄々と重なるときだった。
「ここへきて戦局も変わって傷も受けたことだし、そもそもの下山にあたって随分な変化は起こっただろうからねぇ。ウチの馬鹿弟子ですらこの間下に行ってから妙な調子だよ、すっかり杏も食べなくなって」
「そりゃ絶対違う理由さ」
「ま・少し薬を増やそうか?それとも他に希望する薬…」
「ないない」
「……っなら」
「なんさ今の今舌打ち」
「他に変わったことは?」
そもそもその薬の効能だって知りやしない物騒なこの少女、せいちょうよくせい、はいらんよくせい、平仮名のままだけで理解したのが数年前。満月だろうが新月だろうが、その月が来なければいい。その心地良さすら感じる清々しい迄の浅はかさと幼さが――少年の狭間で前髪が揺らぐ。他に。他に……脳裏に浮かぶ白い外套は、然る後に火竜で燃やしてやった。
「全然。」
そうなのだ。気にしている暇など何処にある?
「はい、天化くんお待ちかねご立派モデルver.8.0.1!」
割って入った太乙の陽炎が、真っ黒い巾着袋片手にこれまた飄々と。中身は言わずもがな、下山の術を奪った少女の夢を叶える宝貝そのものだ。
「……一体どこが変わったさ」
「いやドコと言われてもドコって…研究上特記するべき変化はあってもそれは天化くんに告げるべき変化じゃあないんだよね…」
「意味がわかんねぇ」
「キミの身体と外見的要素に合わせた黄金比にはしたつもりだけよ。大事じゃない、脱いでびっくりなギャップも」
「ますますわかんねぇさ」
「これで楊ゼンにも武王にも負けないと思うけど!」
「そんじゃあ宝貝人間は!?」
えらく物騒な響きと共に、――やっぱり根本でわかっちゃいない。
「いやーそれはナタクはまだ少年だからー…ね?」
曖昧に返す他ないだろう。
「ウチのにも与えてみようか、その手の類の杏とか薬とか」
「言っとくけど私のナタクは少年の中じゃ最強の黄金比だよ」
「そのサンプリングが気になるよねぇ、出所は?」
「独自調査の賜物だよ、企業秘密」
「だから全く意味わかんねぇさ」
散々首を捻ってから、まぁいいさ、そのひと言で少年は飛び立った。あの外套の待つ城へ、遥か彼方舵を取る地表へと。思考の渦に負けぬよう、大地を蹴りにいざ行かん!怪しげな科学者たちの高笑いを背に受けて、今日もこの場所は必要以上に平和だった。
少なくとも、あの外套が涙に濡れることはないであろう程度には。

崑崙を背に、黄巾力士の走行音が混ざる風の音。
「やっと」
下に降りられる。
「コーチも過保護過ぎさ」
聞けばもう要塞に向かって進むと言う。それならば、
「こっからは女もいねぇし。いくら王サマでも逃げ出さないっしょー」
わざわざ口にする程に、浮き足だった胸が震える。咥え煙草の少年の口角が、吊り上がって固結びに張り付いた。
「ぷーりーんーちゃーん!」
「待ってハニー!」
「ギャアァァア!!」
――……張り付いた。
「なんの追いかけっこさ遊技場かい!!」
振り下ろした右手の下で、三つ巴の最後尾。鼻血に濡れた白い外套が土に張り付いていた。









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