甘み
――淡く遠き幼子の夢は、未だ此処にありありと生きている。
夕暮れの朝歌のあの街で、淡い朝焼けの色の毬を片手に手を引いてくれたひとの影。ひとつ歳上のふたつに結われたたおやかな黒髪が、悪戯な連中に拐われた毬に泣いていた。
「ほい!」
そこらに溜まった子供の群れはあっという間に蹴散らして、生い茂る木々の上で寂しそうに縮こまった毬を還してやったんだ。
「いやならちゃんと言わなきゃあいつら調子のるさ」
幼子の夢現。
「黙ってちゃわかんねぇ」
差し出した毬は、彼女の乳母に拒まれて、独り夕闇に転がっていた。
なんて乱暴な。
それが女の子のすることですか!
叩き付ける言葉がわかる程、きっと強くはなれないのだろう。
なんでさ!当然の疑問を投げつけ返した黄家の長女は、一文字に口を引っ張って夕闇に背を向けた。あの娘の顔は、最後までわからなかった。
ひらりひらり、舞い散る桜に新緑の日々。
「オヤジはちゃんとかえしたっていったさ!」
何時だか聞いた、森から連れ出された霊獣の子供の話。だから聞太師と友達になったんだ、悪いことはしてない、霊獣はお母さんとしあわせに暮らしてる。
「いや、女ってのはだなぁ…」
言いかけて言葉を探し続けた父の口から、未だに答えは告げられない。眉を寄せて髪をかき混ぜて、何度も首を傾けていた。
「天化ちゃんはひとつも悪くないわ!気にすることなんてないのよ」
困り果てた父の前で、明るく言い放った叔母がいた。
「でも、もう殴ってはいけないわ。みんなとお話しないと」
柔らかく微笑んで、良く似た髪を掻き分けて、額に唇を落とした母がいた。
「……うん」
幾分返事が遅れていたのは、慣れないことに顔が真っ赤になったから。幼い頬が照れ臭かった。
「あいつら、今度やったら僕を呼んでよ」
その"あいつら"にやられたばかりの穏やかな兄が、胸を張って隣にいた。天然道士の跳ねっ返りは、どうやら此処で生きにくい。それだけの、甘くて苦くてちぐはぐな幼い日々は、未だ少女の胸の内。
「男が泣くもんじゃねぇぞ!」
穏やかな兄が膝を折って泣いた日に、確かに父からそう聞いた。なんでさ?また投げつけた幼子の問い掛けの謎は解けないまま日が落ちる。
「おれっちなかない!」
胸を張ったら、大好きな顔は喜んでいた筈。
女はすぐ泣く、自分のことは投げ出して。怒られるのは何時だって男と跳ねっ返りだ。
大人はすぐ怒る、理解出来ない歪んだ理屈を、無垢すらを飛び越した跳ねっ返りに突き付けて。
「15になったら、きっとすぐ後宮に呼ばれるわ」
「なんでさ?」
「とっても綺麗だもの、天化ちゃん」
皆がみんなそう言った。
「おれっち武成王じゃくちゃいやさ」
跳ねっ返りはそう言った。
なんてことを、陛下に対して。後宮に入ることが一体どんなに名誉なことか、わからないのよ粗野な子には。
口々に飛び交う言葉の群れが、自分に向けられた意味を知る――何時だって傍にいてくれた気丈な叔母が後宮に身を消したのは、それから三度月が昇る頃だった。
「……んー、でもうんと強い王様で、そんでおれっち一緒に戦行っていいんならなってやってもいいけど」
跳ねっ返りがそう言えば、殷の太師は頑なに首を横に振る。何故かと問うても答えはない。ただ、いけないと、微かに眉を寄せていた。
わからないことに不平等。
かざした剣に何時だって嘘はないのに。
――だから。
寝室が木っ端微塵に吹き飛んだ月の夜が空ける頃には、黄家の長女はこの世を去った。
遥か高みに、
「俺っちは黄天化。黄飛虎の次男ってとこかな」
答えを探しに曖昧な夢を突き付けて――。