苦み
高みに昇る為の少女の無茶な願い事は、押しに弱い巻き込まれ型の科学者の腕と技術によって叶えられてしまった。
それこそ更に端的に、用を足すときに立つか座るか二通りの選択肢。麻酔に酔狂する間に、選択肢と護るべき数少ない最大の秘密の防衛作を奪われてしまったのだ。子供の遊び道具の如く。
「張り切るのはいいことだがなー、そんなに護衛の任をウエイトにしなくてもいいじゃないか」
「自分のポジションに責任持てって言ったのはコーチさ」
この身体は下界の誰にも曝せない、悔しさに歯噛みする。牙を剥く無防備な首筋は、柔らかい肌に少女の色を湛えていた。
「それもそうだなぁ」
それでも頷く師父の声はある程度の距離を置いて、
「じゃなきゃあの人サボりまくってるし!」
力なく噛み付く天化の髪を撫でるだけだった。
「いいじゃないか、あれでなかなかリーダーシップもあるようだったぞ?」
「だからコーチもスースも親父も買い被り過ぎさ!みんなして騙されてるんさ顔だけ姫昌サンだから!」
幼い日の父の手に似て、……あのとき感じた髪をすく指とは違う指。
「大人しくしてるかと思えば寝こけてるし!折角飯作っても豆は食わねぇとか我が儘言って本当に豆鉄砲飛ばすしスースと一緒に桃蔵と酒蔵荒らしてるし!」
「確かにそれは赤子並みだ…」
「性欲あるだけ赤ん坊よりタチ悪くって!モテねぇ癖に街で女ひっかけてっかも知んねぇし大枚叩いて娼館で女買ってるかもしんねぇしー…!あー!」
寝転んだ寝台から見上げた笑顔と天井が、困りながら木目を描く。
「うー…でもそうじゃなきゃその女性も食うに食ってけないだろう。」
「ぐ」
「要は世の中フィフティーフィフティーってことだよ」
「街の女は」
「じゃあ試しに彼の結果は?」
「あー…0勝100敗0引き分け」
「ほら」
「…っじゃあフィフティーフィフティーじゃないじゃん」
「だから娼館とやらでは白星100だろ?」
「……今頃周公旦にハリセン喰らって象の下敷きで」
「それだけ屈強なスポーツマンならお前が護衛に付くまでもないじゃないか」
「あー、うんまぁ…そりゃそう…」
共に過ごした時間は圧倒的に長い師父の声に紫陽洞の陽の匂いは、毎度ながらのリズムで続く。あのおちゃらけた次男坊とも、ある程度のテンポで続いていたその他愛もないじゃれ合いの標的が、此処にあらずの当人であることは、
「脚だって速いんだろう?ん?いやっ…実は未来のエース天然道士だったり!!」
「残念、逃げ足だけの天然タラシさ」
「そりゃもったいないなぁーっ!」
「コーチなんか脱線してるさ」
どうにも不思議な心地の陽の色。さらりさらり、流れる時間は此処とは違う。根本から。 居心地が良くて、苦しくて、楽しくて、暖かで、
「まぁつまりだ!お前が武王を護ろうと下山のリスクを背負ってプロ契約して闘う、だが負傷する、また次に闘う為には、しっかり休養しなきゃそもそもの選手生命もないだろう」
「……でも傷付けちまったし、王サマ」
にがい味。――人間なのだ、あの人は。だから護るのだ、とっくに知っているのに。
「ああー…あれはキャプテンだった太公望の制止を聞かなかった彼のペナルティだろう。」
叩いて飛ばされたあの音が響く胸の内。魔礼青と名乗ったその声に匂いとやらで見下ろされた身体が、
「その時既にサーブ権は魔家四将に移ってたのに、だ。彼が彼のポジションを受け持って負った傷だよ。」酷く傷む。汚れて焼かれた戦慄の果て。
「そうじゃなくて」
武王の女か。
繰り返す言葉に否定を重ねた。意味のわからない下卑な笑み。嫌だ、嫌いだ、
にがい。苦い。ああ、そうだ――同じ甘味だと言われていたから、出来心だったんだ。沢山並んだ甘い砂糖菓子を一つ摘んで口の中。
――あの人、ちゃんと泣けないかも知んねぇ。
あまりに苦くて酸っぱくて、舌が痛くてハの字になった眉毛に母が微笑んだ幼い日。
――スースにはどっか頭上がんねぇようだし周公旦の前じゃおどけちまうし、コウモリの前じゃいい兄貴だし。 親父のことは頼ってくれてるみたいだけど親父が頭下げちまうし。
あれは薄荷と言うそうだ。長きに渡って、脳の桐ダンスの奥の奥に後生大事に畳んでしまった記憶の一部が、どうにも最近陽の光に呼び戻される。そうさせるのは誰だろう。嫌ではないけど、きっと良い居心地ではない妙な感覚は、研ぎ澄ました戦士のそれとは扱いが違うから、――苦い。鼻の奥がきつく摘ままれる痛みの衝動を押し止めては毛布を握り潰した。
――意地っ張りだから、……笑いながら弱いって怖いって言える癖に、ちゃんと泣けねぇから。居場所作ってやんなきゃ……――
「それに天化の休養を望んだのは武王だぞ」
「へっ…」
何時かの誰かのように穏やかに舞い始めた思考の旋律が、その声に立ち戻る。
「ちゃんと治るんだろ?治してやってくれ、無理ばっかり言っちまったから…ってな」
「そ…え、あ、どーしてそれ先に言ってくんねぇのさ!」
「俺の言うことは聞けないって?」
「あ……いや…えー…」
開いても閉じてもおけない妙なテンポの歪な口が、しばらく酸素と答えを取り求めていた。……そう言えば、何時の間に自然な呼吸を取り戻していたのだろう?
「ほら、わかったら寝ていなさい。これからもトップ通過で衛契約取りたいならな」
また軽快に頭を叩くグローブに逆光の太陽の笑みは、やはり何年かかっても追い付けっこない師父のそれだった。さらりさらり、時が流れ雲が流れ、
「……はい」
渋々頷いた少女の肩に少し乱雑な毛布を掛けなおして、その笑顔はそこにある。
不思議。
矛盾。
当たり前。
その笑顔の前では苦い味はしないのだから。
追い付きたくて噛み締めた奥歯の悔しい味は覚えていても、結局甘ったるいのだ。――師父は、笑って遙かな空で待っていてくれるから。差し出される手を取ることも迷わない。強くなる為に、父とは違う父となった人。
「負けるプライドもなきゃ、スポーツは続かないぞ」
スポーツの意味することが単語のそのままなんて、思ってはいない筈だけど。傷付いたって答えが見えなきゃ、この命は散らせない。幼い日の答えまで……
わがままな思考がふわりふわり、あの人間界に立ち寄りたがる掴みたがる、似合わない外套。
ほら、苦くて不味いのはあの人だけだ。
不器用な眉が少しの上下を重ねた後、少女の頬が不恰好な夢に落ちた。
王サマなんて大嫌い。
2011/05/28