苦み




「天化……」
優しく優しく声がする。

親父じゃねぇ。おふくろはもういない。コーチ…違う、コーチよりちょっと低い。太乙さん?よりガサツな声で、ああ、きっと楊ゼンさんさ。…じゃない、楊ゼンさんは俺っちに"くん"ってくっつける。
ふらふらしてる間抜けな声が。スース?…違う…
「天化」
違う、誰さ――?
「…お、…ぁ」
「天化?」
「っ……サマ…!」
「おー、調子はどうだい?」
「……コー、チ?」

落っこちた夢まで撥ね退けて飛び起きたつもりの両の手足が、いつもより重たい毛布に阻まれた。
「コーチ!?なんでコーチが」
「なんでもなにも」
頭の上でカウントを取るグローブに包まれた指先は、確かに天化の心音を追い掛けて重なっている。とん、とん。
「縫合もすんだから、そろそろ起きる頃かと思ってなー」
遠い昔にも聞いた音。
「…ええ!?ここ…なんで!」
飲み込めないまま見渡す限りの青空と岩壁が物語る、人生の半分を費やしたその場所は、
「なんで帰って来ちまったさ!!」
「治療が必要だろう?その傷で選手生命絶ったらどうするんだ」
「だからなんで俺っちに黙って!」
「眠ってたじゃないか今の今まで」
「……っでも」
予想に反して妙な居心地の悪さが乱反射していた。突き刺す陽の光に青々広がる空に続く、綿菓子に似た白い雲。
「…っても俺っち大丈夫さ!もう戻っか――ん…ッ…」
跳ね除けたつもりの両手両足全細胞が、再び思惑を裏切った。
「――…ってぇ…」
師父が支える迄もなくその場から動かない一つひとつの細胞は、真新しい白い包帯に守られたまま。
「まだ効いてるみたいだな」
「なにがさ」
見開いた目の瞬く速度が同じなのも、
「縫合の時に今度こそ雲中子に助っ人を頼んでな」
我関せず飄々と話すスピードが近いのも、
「んじゃ俺っち杏とか食わされて」
「ないない、大丈夫!麻酔も吸うのと打つのと飲むのと違うんだそうだ、どっちか忘れたが」
「俺っちに無断で麻酔」
「すぐ動きたがるだろうから多めに入れて貰ったぞっ!」
「んっとにサイテーさバカコーチ!!」
自他共に認める明らかな似た者同士なのだろう。
「バカはないだろーっ」


奥歯を噛み締めて沈んだ寝台は、既に懐かしくすらある香りと血の匂いが拮抗していた。
――あの人には、近付きたくない。否、知られたくない、野生の香だ。
男は元来その手の臭いに弱いと聞いたし見て知っている。現にあの人は鼻血が精々の許容値で、そもそも国をかけた血染めの旗をかざせる程に律してはいない。ある種のありのままを引き連れて、臆病だから。
自分たちを含め、好んで空に上がるような者以外は触れる機会もない物だ。自分だって好き好んで流す訳がない、血液なんて。

「ああそうだ、お前の宝貝」
「うん」
「ナタクの修理優先で、"手が空き次第"メンテだって言ってたな」
「……みんなしてそうやって騙し打ちかい。一生空かねぇさ…」
にっかり笑う師父にしてやられた。――生身の身体の構造で下に降りられる余地はなかったのに。
「諦めるプライドも必要だぞ、天化」
「コーチはずるいさ!太乙さんだって雲中子さんだってスースだって!」
矛盾。わかってはいるつもりで、気だけは急いて止まらない。長らく連れ添った下半身の一部が欠ける違和感は、彼女、本来の違和ではなかった筈なのに。

強さと弱さ、男と女、涙とサラシを引き換えに、端的に言えば下半身に男性のオプション付きでなんと月々負担額はゼロ。

「今すぐ戻んなきゃなんねぇさ!」









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