血潮




泡沫の花火のように、きっと恐怖は忘れ去ったのだと。
「俺っちこう見えても負けず嫌いでね」
風の空を走り抜ける白く大きな毛皮の上で新しく握った黒くか細い宝貝が、胸の内を追い上げた。
「再戦さ!!!」

純然たる戦士はそこにいた。

「天化くん…もう傷は平気なのか!?」
誰よりも、負ける訳にいかないのだ。自分にそう誓ったのはあの決別の日、結局今も手の中に残ったのは戦士の証。――負けらんねぇ…!

あの下卑た薄笑いの剣士が只々嫌いだった。初めてあの人をはねた回廊も飛び出した庭も想いも存在も、見透かしたように笑うその声が嫌いだった。
「……っの妖怪!!」
見下ろした声が注いだあの瞬間に全身の血がざわめきたったのは嫌悪だ。果たして誰に対する?跳ね返された獏邪の宝剣も、あの剣士の宝貝の残像も回り込まれる悔しさも受け止める重さも、確かに昂る戦闘の心地良さと、嫌悪を引き連れていた。
「かわす必要はねぇ……」
それが嫌だ。純然たる戦士の血潮に降りかかる侮蔑の疑問は、脳裏に翻る白い外套の記憶に成り代わっていて――それが嫌だ。逃げ切ったのだろうか?姿が見えないその人は。
「今度はこの宝貝『鑚心釘』で俺っちが攻める番さ!!!」
大嫌いだ、いかないのだ、負ける訳には!

「……あんたなかなか手強かったさ」

あの覆面が苦痛に歪む。それを望む程下卑た戦いをしないのは、己の戦士としての誇りなのだろう。曰く"慣れぬ宝貝"で跳ね返してやった雪辱とプライドに、噴出した礼青の血潮を見た。それでもなにより悔しいのは、終ぞ敵わなかった剣の腕だ。飛び道具の鑚心釘では腕に残る感覚が違う。――だからこそ、最期を締めるのは己の剣だろう。妖怪だろうとその覆面は自分の上を行く遙か高みの剣士であるから。ゆらりと吐き出す煙草の煙に張り詰めた思考。真っ直ぐな面差しで突きつけた切っ先が、
「天化くん危ないっ!!!」
爆音と振動の最中、勢いよく宙に浮いていた。落下と同時に自分を狙って大地を押し潰す巨大な宝貝に、ようやく少しの寒気が戻った。
「平気かい天化くん!?」
その覚えある感覚は、真新しい黒のレザージャケットを白い毛皮に咥えた空の色。……結局また遮られ――否、助けられたのは不覚でも感謝でもある奇妙な感触だったと記憶する。戦ぐ風は、遙かな高みであの豊邑の匂いがした。

――そうだった。あの人は逃げたのだろうか、無事なのだろうか?
一瞬の判断ミスに思考の混線、楊ゼンの口から漏れた微かな溜息に気が付けるほど、結局悟ってはいないのだろう。たおやかな髪は天化を芝に下ろした後、風に乗って戦場へ飛び立った。

恐れの一切を手放した隙に立ち戻る微かな焦燥は、楊ゼンの判断力と軍師の声、戦いの終幕と共に天化の胸の内に戻る。

何故だろう。
戦闘は終わった。
見やった空には師父がいて、操る黄巾力士の上には幾度か見かけた道士二人が助け出されていて、肩を貸して褒めてくれるあの日のような父がいる。戦闘の恐怖を士気に代え、活気付く豊邑の街がある。立ち上がる民衆がいる。それでいい筈だ。何故だろう、なんだろう。天化の胸を駆け抜ける焦燥と激しい動悸がサラシの胸を締め付ける。

そうさ、王サマ……

意思に反して思考を閉じにかかる瞼と全身の痛みに口を歪めて、目を細めた城壁の上。
「……あのコウモリ…」
会話は聞こえなかった。何度か崑崙の山々の隙間から垣間見た黒い肌の少年が、城壁越しに探した人の笑みを受け取っていたから。それだけでいい、今はそれだけで、――無事だった。あの人が、王サマが。

あの人が瓦礫の下の民衆を助けると言って駆け出したこと、何も出来ないと自らと軍師を叱咤したこと。結果どちらも戦術として成り立つそれには程遠く、王にはまだまだ長い道程だろう。それでもきっと、彼は得てして良き王になる。

――そんなことを話す父と師父の声がした。
違うだろうか、夢かも知れない。この二人と自分を交えた三人で、暁を迎えるまで話し合った幼い日を思い出す。――嗚呼、やはりまた夢なのだ。心地よくて少しだけ哀しい夢なのだ。

「天化…ごめん」

薫る声に、震える香。

「……ごめんな」

薄く薄く持ち上げた瞼の前で、顔を歪めたその人がいた。

「…王サマが謝ることなんてひとつもねぇさ」

声に出来たのだろうか?わからないまま、王と呼ばれた外套が翻る。待って、行かないで、まって……声にしかけて気が付いた。
それまでおっかなびっくり繋がれていたのが、その人の指と己の指であったこと。絶えず前髪をなでていたのはその反対の左手だ。
「……っさ、王サマっ…!!」
離れて初めて気が付いた。

自分が眠っていたこと、きっとずっとその人が傍にいたであろうこと。痛みと充足の中で擦れた自分の声が、執務に呼び戻されたその人には届かなかっただろうこと。

生きていてくれて、酷く安心したこと。
翻って離れて行く背が何度かこちらを振り返ったこと。

その顔にその声に足音に、むせ返るような未知の香りが胸の中を締め付けたこと。
「……王サマ」
一言の言の葉を搾り出して、サラシの胸が思考の一切を手放した。――ここにある、深く甘い、純然たる夢の始まり。


2011/05/21









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